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「創価学会2世に生まれるということ」ー元2世信者ヤマダさん、創価学会を語る①ー

こんにちは。創価学会の元2世信者のヤマダさんです。
両親が熱心な学会員で、選挙活動や布教活動に巻き込まれながら育ちました。
大学卒業を機に完全に学会と縁を切ろうと奮闘し、一時は達成したのですがその後就職先で体を壊し、療養中にあらためて自分の中の「2世として傷付いた子供時代」と向き合いました。

はじめに。

旧統一教会に関連する事件や被害が多く報道され、エホバの証人や幸福の科学といった新興宗教の問題も再び注目されています。しかし私の体感として、創価学会への関心は前者の団体に比べて薄いように感じられます。実際、創価学会の教義には献金問題や肉体的虐待、霊感商法といった目に見える異常さはありません。そのため温厚で比較的まともな、「選挙の時にうるさい程度のちゃんとした宗教」という認識の人も多いのではないでしょうか。

しかし、2022年12月27日、厚生労働省が発表した「宗教の信仰等に関する児童虐待等への対応に関するQ&A」の虐待項目に当てはまる行為が、創価学会内でも行われているのではないかと思います。ただ、なんともグレーな雰囲気というか、一番証明が難しい「心理的虐待」に集中しているため、創価学会2世は本当にこの項目に当てはまるのか、また、当てはまったとしても、家庭内の教育方針という枠で収まり宗教被害とは言えない、という判断になるのではないか?という疑問や不安があります。上記の通り、創価学会の教義自体は比較的穏やかな教義を持っていますが、その教義を使って子供をコントロールしようとする親はいます。私たち創価2世も、この度の救済法案で助けてもらえるのでしょうか?それとも蚊帳の外なのか…。意見が欲しいところです。

ヤマダさんの経験。

そもそも、生まれた瞬間から特定の宗教に入信させられるという状況自体が信教の自由を害する人権侵害に当たるのでは?という前提もありますが、「心理的虐待」に当たると思われる出来事を私の子供の頃の経験からいくつかご紹介します。

・「お前は餓鬼道にいる」。


ー学会の教えに「人間革命」というものがあります。簡単に言うと、「自身の弱い心に打ち克とう。」という真っ当なものです。しかし、「身に起こる悪い事は前世の業が原因であり、前世から引き継いだ業のある命を善くするのが今世の使命。」という世界観があります。「餓鬼道」とは仏教用語で、物欲に塗れた人間が堕ちる地獄のことです。私は何かを親にねだったり悩みを相談したときによく言われました。ニュアンスとしては、お前は業を背負った人間なので悪いことが起きる。しっかり祈って「宿命転換」しなければいけない。という意味です。前世から引き継いだ業を今世で綺麗にすることを「宿命転換」と呼びます。

・勤行をしないと無視される。


ー家族揃って仏壇の前に座り、法華経を読む習慣があるのですが、私の家庭ではこれを拒否すると親の機嫌が悪くなり無視されたりします。私は第一子なのですが、下の兄弟との扱いをあからさまに変化させ、見せつけてくるという事が多くありました。子供ながらにキツかったです。親は家庭内の空気をコントロールするのがうまく、そんな私の仕打ちを見た下の兄弟は親に逆らわなくなりました。

・敵を罵る。


ー創価学会では、創価以外の宗教を創価の下に位置付けています。その為、その他の宗教を結構強い言葉で否定することがあります。また、某政党にも謎の憎しみを持っている場合があり、その名前を出し話題に上げるとあんなのはキ○ガイだ。と言われます。全ての会員がそうではないと思いますが、子供に学会の教えを用いて他所の文化や思想を悪と教えることは本当に正常な教育なのか疑問です。

・学会活動の参加を半ば強制される。

ー小学生になると、地域の会合に参加させられます。管轄の子供達が集まり題目の練習をしたり簡単に教えを学ぶ会です。ミニゲームをしたりお菓子を貰えたり楽しい雰囲気です。中高生になると、社会人会員の目標達成スピーチを聞いたりします。内容は、「こんな壁にぶち当たりましたが、法華経の力で勝利し、見事○人の折伏(他人を入信させること)に成功しました!」という感じです。たまにある大きな行事では子供にスピーチをさせたがります。
◎私も大学進学前に大勢の前でスピーチを強制されました。ちょっと難しい大学を受験することになっていたのですが、その大学への合格を「誓う」スピーチをしろというのです。いつの間にか地区の偉い人?と親の間で決まっており拒否権はありませんでした。学会も少子化が進んでいるため、学生はこういう謎のスピーチが順番に回って来がちです。内容は、「〇〇大学に合格するために毎日勤行を○時間やり、勝利したいと思います。皆様応援お願い致します。」といったもので、当時の私はすでに学会活動に疑問を抱いていたので、意に反する宣言をさせられることへの不快感は相当なものでした。また、一度も顔を合わせたことのない会員の人々に「素晴らしい!」「祈ってるよ!絶対勝てるよ!」などと声を掛けられるのもいたたまれない気持ちを生みます。私は学会のために頑張るわけではないし、大学に合格したり、何かを成し遂げることは私の努力の成果であって、決して祈りの効果ではない。と強く思っていました。大学合格後も、顔も知らない会員の人たちに報告し謎の謝辞を述べる必要があります。純粋な努力ではなく「祈りの力」「みんなのおかげ」とされるのがたまらなく悔しかったです。(スピーチで行ったような熱心なお祈りなどは全くしませんでした。普通に一生懸命勉強して普通に合格しました。)

・個人情報の漏洩。

ー大学に進学すると今度は選挙活動(票集め)の役割を担わされます。また、どの大学にも創価学会系のサークルが存在し、引っ越したり進学したりしても謎の連絡網と情報網により引越し先、進学先の学会支部に個人情報が流れます。そしてその支部、地区の会員が積極的に連絡して来ます。
◎私は大学進学後、かなり強い気持ちで学会との関わりを断とうとしていました。学会活動には参加しないと宣言していますし、次第に家庭訪問(社会人会員がアポ無しで家にやって来て会合に引っ張り出そうとする)も減っていました。しかし両親が勝手に私の進学先やメアドを学会側に伝えており、通っている大学の支部のリーダーからメールや電話が来るようになります。無視すれば済むレベルなのですが、泣いて叫んで嫌がったのにも関わらず両親が私を活動に引き戻そうとする執念に唖然としました。就職が決まり一人暮らしを始めた時も、引越し先の住所や連絡先を回され、学会員が毎週家にやって来ました。

・創価大学以外の進学を認めない。


ーこれは友人の話ですが、創価大学に行かないのなら学費は出さない。仕送りもしない。と言われたそうです。彼は学費免除&奨学金で全額学費を自力で賄い、実家も出で国立大学に進学しました。私自身は学会系の学校への進学は強制されませんでしたが、私立大学に通わせるお金は無いが、創価高校ならなんとかお金を作ってやる。と言われていました。普通に県立高校に行きました。

・悪いことは祈りが足りないから。良いことは信心のおかげ。

ーこれも家庭によるところが大きいかもしれませんが、悩みや嫌なことが続くと「そういう命に生まれたから。」「人間革命しなければいけない」「だからしっかり祈りなさい。」という常套句が親の口から出てきます。子供の頃はこれを言われるたびに、「私の命が汚いから理不尽な目に遭うのか」などと思い込んでいました。思春期なりに色々な悩みがありましたが、もっと合理的な解決方法や単純な慰めが欲しかったなと思います。また、何か手柄を挙げると信心に守られた。ということになります。大体において、親は「私という個人」を見るときに「信心というフィルター」を通しています。そしてそのフィルターは曇りガラスのようなのです。

ヤマダさんの心が折れた出来事。

後に詳しく書こうと思いますが、私は中高躯体で創価学会への不信感を持ちます。理由は色々あるのですが、私自身の視野が広がるにつれて学会の教えの矛盾と排他的な態度に不誠実さを感じたというのが大きいです。反発する私を親は会合や勤行、イベントに引っ張り出そうとしますが拒否し続け、「ああ、この子は学会の教えが分からないわがままな子供」というレッテルと引き換えに少しの自由を手に入れました。家庭が居心地の悪い空間であることに変わりはありませんでしたが、「あとは就職と共に実家を出て一人暮らしをするまでの我慢。」と思っていました。

そしていよいよ、私が他県に引っ越す際のことです。両親は私を創価学会の会館に連れて行くと言います。「まあ、もうおさらばだし最後に一回くらいいいか・・・」とのこのこついて行来ました。そこで私は謎の祝福を受けます。

地区にある大きな学会の施設には「旅立つ私のために」20人近くの会員が集まっていました。もちろん誰一人知り合いはいません。唖然としていると、仏壇の真ん中に座らされ勤行(お経を読む)が始まりました。どうやら私にご本尊を授けるための儀式だったようです。創価学会のご本尊は1世帯に一つ。つまり家を出る場合は新しいご本尊(掛け軸みたいなやつ)を授けられます。見知らぬ人たちから肩を叩かれ「おめでとう!」「おめでとう!!」と声をかけられます。「ありがとうございます。」母が言います。「ありがとうございます。」父が言います。ゴンゴンと独特の読経が畳の部屋に鳴り響きます。心がシンシンと冷たくなりました。大きな仏壇の前で支部の偉い人が厳かにリンを叩きます。四方から、大嫌いなお経が私の体にぶち当たります。独特の低い読経が全身の毛に絡みつくようでした。「騙された」と思いました。「裏切られた」とも思いました。そして「ああ、わかってくれていないんだな。」と思いました。左右にいる父と母の読経が一際大きく聞こえます。幼少期から勤行を行なっていたので教本を読まなくても釣られて心の中で文言を唱えそうになります。呪いだな。と思いました。私はひたすら俯いていました。膝の上には勤行に使う数珠と教本がありました。今ここで何かを考えたらきっと泣いてしまう、と思いました。とにかく心を無にするように務め、白い空間を思い描き、手を握り締めて勤行が終わるのを待ちました。私は学会と縁を切るために半年就活をしたのに、今、学会員の証であるご本尊を受け取ろうとしている。

勤行が終わるとまた、見知らぬ人たちから「おめでとう!」の嵐を受けご本尊を渡されました。泣かないようにするのに必死でした。心を押し潰す努力をしました。普段なら愛想笑いの一つも出来たでしょう。向けられる他人の、心からの笑顔。
目の前にマイクを渡されました。「おめでとうございます。何か一言!」私は渡されたご本尊を抱きながら何も言えませんでいた。何か言ったと思いますが覚えていません。拍手の音がなっていました。マイクは父の手に移りました。父は泣いていました。「僕が不甲斐ないばかりに力及ばず、娘は学会に対してこんなふうになってしまいました。しかし本来は立派な人財であります。僕も、より一層信心に励み、いつか娘が学会にとって素晴らしい人財になると信じます。」

創価学会では、会員を「法華経の教えを世界に広めるための人財」と呼ぶ事があります。熱心に活動する人は「素晴らしい人財」というわけです。また、親は子供を素晴らしい人財にしたがります。

両親にとって、私は”こんなふうに育ってしまった”子供なのでした。どんなにいい大学に行っても、何か功績を残しても、友人に恵まれたとしても、学会を肯定しないだけで、それが私の最終的な価値なのでした。

母にマイクが渡ります。「本当にその通りだと思います。」母も泣いていました。私のためを思って涙を流す両親を見たのはこれが初めてでした。私は泣きませんでした。泣いてたまるかと思っていました。心を捻り潰していました。そしてまた、見知らぬご婦人が私の肩を抱きます。「お父さん!大丈夫よ。娘さんは本当はちゃんとわかっているんだから。ね?そうよね?」私は肉体の感覚も聴覚も、全部失ってしまいたいと思いました。

その後は記念撮影が行われ、皆様にお礼を申し上げ撤退となりました。ずっと夢の中を歩いているようにぼーっとしていました。人間の熱気と、頭に響くリンの音、私を人財と言った両親。負けたんだなと思いました。「娘である私」は「学会の教えに気付けない娘」に負けたのです。何度も何度も両親とは話し合いをして来ました。私の要望は、多くの人と同じように普通の生活をしたい。普通の親子関係を築きたい。私を個人として見てほしい。私を学会の尺度で測らないでほしい。それだけでした。それだけの事を手に入れるのは随分難しい事なのでした。両親の中に「私」はいないのだと確信しました。いつも「幸せを祈っているよ。」と両親は言います。しかしそれは「学会員であるあなた」の幸せを祈っているよ。なのです。どこまで行っても。どこまで行っても。

その後、ご本尊は捨てるわけにもいかず新居に運ばれました。押入れの奥に封印しようとしましたが、しっかり両親の監視のもとよく見える位置に安置されました。地震が起きるとメールが来ます。「大きな地震だったけど、ご本尊は倒れていないか?」私自身の身を案じられたことはありません。

会話が通じない両親へのたった一つの願いが、学会に関わらせないでくれでした。しかし就職後もなぜか私の連絡先や住所が出回り、家に毎週末会員が家庭訪問に来ました。居留守を使いますが、日曜日になると「そろそろ来るのではないか。」とソワソワして休めません。土曜日には、「明日きっと会員の人が来る。」と思います。金曜日、「明日から休みだ!」「でも日曜日にはチャイムが鳴る。」

果たしてこれらは「宗教」虐待なのか?

今振り返ると、おめでとう!泣いちゃだめだ!のくだりは「なんてエヴァンゲリオン?」とも思えます。

ここまで書いてきて、やっぱりこれは「宗教虐待」なのか、それとも私の親が特殊な人間性を持っていて、「宗教の教え」を悪用して子供をコントロールしているだけなのか私にはいまだに判断がつきません。きっと、今取り沙汰されているいくつかの過激な宗教会員も家庭によって「教えの用い方」が違うのでしょう。生きる目的が宗教奉仕になっている人の家庭は悲惨でしょう。しかし人生に彩りを、程度にコミュニティと仲良くしている、上手い付き合い方の会員もいるのだろうと思います。また、視点を変えると宗教会員以外の家庭でも何かの思想に囚われている親がいる場合は似た問題が起こるように思います。例えば学歴主義であるとか、強いイデオロギーを持っているとか、最近話題のヴィーガンなども同じかも知れません。「どんな家庭にも大なり小なり問題はあるよね」というのはわかります。何でもかんでも「毒親」を持ち出す風潮にも疑問を感じます。しかし、親の資質の問題と宗教の問題は同じでしょうか?不遇な子供が減って欲しいと思います。つまり、憲法に信教の自由が保証されているこの国でその「自由」を理由に一部でもその不遇を救うことが出来るなら声をあげるべきでしょうか。

今後。

お話したいことはたくさんあります。次回は問題を正しく理解するために、そもそも「創価学会とはなんぞや?」という基本的なことから、私自身の経験も踏まえて具体的に書いていこうと思います。創価学会系の報道や記事には、感情的だったり、政治思想的、陰謀論的なものも多いです。なので、ごく簡単に理解出来るような基礎的な事実を書いて行こうと思います。

同じような経験がある方、救済法案や二世問題解決に希望を持っている方がいたら嬉しいです。また、ここでは私の経験を書いているので全ての学会員が同じ経験をしているわけではないことは想像に易いと思います。経験についての成否はありませんが、学会の教義内容の認識が間違っている場合は教えてください。(私は自分で御書を学んではいませんし、任用試験も受けていません。反発していたので…全て親や身近な会員に受けた「教育」です。)

2023.1.10


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