「MARCHを第一志望校にするやつはカス」なのか。 〜学歴主義と進路決定〜

 私には、今年の春高校三年生になった弟がいる。その弟が今日私に向かって「MARCHを第一志望にするやつはカスだ」と言ってきた。きっと精神的に追い込まれつつあるんだろう。当時の自分を思い出し言葉の裏にある気持ちを察する。

 私もそうだったが、高校三年生になった途端、受験がより一層間近に感じてくるのだ。私立や中高一貫の学校なんかは大体二年生の秋頃には学年全体が受験モードになるみたいだが、田舎の公立高校はそれが遅い。確かに、二年生の秋頃から科目選択や文理選択で「ジュケン」というものを意識し始めるのだが、緊張やプレッシャーは全くといっていいほどなく、少し楽しみですらある。(みんながみんなそういうわけではないが、自分は少なくともそうだった。)

 そんな中、高校三年生になると一気に本物の「受験」が押し寄せてくる。今までと違い、授業は受験を意識したものになり、たびたび開かれる学年集会は受験についての話が主となり、しょうもない話ばかりしていた友達との会話にも志望校やこの前の模試の結果などの話題が出てくる。夏ぐらいになるとある程度この生活に耐性がつき大丈夫になってくる(とは言っても、普通に生活できる程度。完全になくなる訳ではない。)のだが、まだその耐性が身についていない新・高校三年生にはさぞ辛いだろうなと思った。
 精神的にキツくなってくると、それを治癒すべく、下を作り馬鹿にし始める。ある程度の進学校では、「MARCHは雑魚」、「私文(=私立文系)は甘え」、「指定校(推薦)は逃げ」という言説が当たり前のように存在しており、YouTubeなどの動画サイトや一部の界隈でも、学歴をイジるのがお決まりの「ネタ」として定着しつつある。今回はこの「ネタ」について一歩、二歩踏み込んで考えてみたい。


 まず初めにはっきりさせておきたいのは、私はここで学歴をネタにするような風潮を批判したい訳ではないということだ。人間は弱い。誰かを馬鹿にしなければ、自分の心の収まりがつかないときもある。それは大人だってそうだ。誰しも、友人、ママ友、上司、同僚、旦那、嫁などの愚痴を言ったことがあるだろう。私はそれを否定しない。愚痴を言うことでその人の明日の命が繋がるのであれば、それでいいと思う。学歴イジリについても、それでまた今日、明日と頑張れるなら別にしたっていいじゃんというのが私の基本的スタンスである。(まあ、もっと良いストレス解消法があるのでは、と思わないではないが。)

 愚痴文化は認める。生きること、生き延びることが何より大切だからである。けれど、それによって人生が束縛されるのは間違っている。私は「MARCHは雑魚」、「私文(=私立文系)は甘え」、「指定校(推薦)は逃げ」といった言説をネタや愚痴の一種とみなした。この認識はある程度正しいように思う。しかし、これらが実際の進路決定の際の一つの条件として、あたかも真実のように存在してしまっているのもまた事実なのである。いや、進路決定だけではない。自ら、そして他者の人生を否定し、その可能性を潰してしまっているのである。

 人生を否定し、人生の可能性を潰すとはどういうことか。話をわかりやすくするために、私が最近ハマっている筋トレを例にして考えてみよう。仮に「MARCHは雑魚である」が正しい、つまり「MARCHを目指す価値などない」としたら、その世界においては筋トレという行為のほとんどが無駄であり、価値のないことになってしまう。大抵の筋トレを始めたばかりの人は、きっと10キロのダンベルを持ち上げることを難しく感じる。けれど、もちろん10キロなんて軽々持ち上げられる人なんてたくさんいるだろう。その人たちにとっては、そのような重さを持ち上げることは「当たり前」で、それを目標とするのは確かに無駄なことかもしれない。

 それでは、10キロを持ち上げることを目指すのは無駄なことなのだろうか、無価値なことなのだろうか。もちろん違う。もしそうだとしたら、100キロのダンベル(このぐらいの重量ならバーベルと呼ぶ方が適切かもしれない)を持ち上げることも同時に否定してしまうからである。

 目標が10キロだとしても、また100キロだとしても、筋繊維を破壊し、より強靭な筋繊維をつくる、できないことをできるようにするということは同じだ。いずれも、本質的には同じことを行なっている。だから、一方を否定することは同時にもう一方も否定することになるのだ。解けないものを解けるようにする、自分の行きたい大学を目指すということは、志望校がどこであれ同じことだろう。もしMARCHを目指すことが無駄なのなら、大学を目指すこと自体が無駄なことになる。

 また、一番初め、スタート地点を考えれば、誰だって最初は10キロのダンベルなんて持てないし、足し算引き算だってできない。達成時期や速度、過程に差はあるかもしれないが、皆通ってきた道であることは間違いない。自分よりもレベルの低いものをむやみやたらに否定してしまうと、過去の自分を肯定できないし、これから先何か新しいことに挑戦する未来の自分も肯定できなくなってしまう。

 このように、突き詰めて考えていけば(=本質的に考えれば)、「MARCHは雑魚」などの主張をマジメに信じてしまうことは、人生そのものを否定することに繋がり、それだけでなく、自分の可能性をも狭めてしまっているのである。


 以上で取り上げた学歴に関する主張というのは、学歴が今以上に重視された名残であろう。なるべく「いい」大学に入り「いい」会社入ることが良しとされた世の負の遺産と言える。今や、スポーツ、芸術、エンターテイメントなど人を評価する物差しが増え、以前よりも学力以外の人の良さに目が向けられるようになった。そのような社会で、闇雲に「いい」大学を目指すということはナンセンスなことであると思う。
 話はまた筋トレに戻るが、筋トレをするにしても、自分が何のために、どうなりたいために筋トレをするか(=目的)で目標も変わる。健康維持のためにやっている人、筋力アップのためにしている人、モテたい人、フィジークの大会に出る人では、どのように筋トレに向き合うかというのが変わってくるはずである。受験についても然り。自分がどのように生きたいのか、そこまで考えられなくとも、どのような大学で、どのような4年間を送りたいのかを思い描く。そして、それに照らし合わせて自分にとって『いい』大学、『いい』進路を見つけ、その道を進むのが良いのではないだろうか。


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