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5.超えてはならない線を目の前にして

二人とも身体が冷え切っていた。イルミネーションの夜に限って、風も強く、ひどく寒かった。駅の地下街で少しほっとしていたとき、彼女が言う。

子どもたちにはご飯を作ってきているので、少しなら時間があります。

すぐに帰ると思っていた私は、その言葉に驚いたともに、少し複雑だった。

誰にも見られたくないな、、

駅ビルの小さなコーヒーチェーンに入った。あまりに寒くて、二人ともポットの紅茶を頼んだのは笑ってしまった。

手が寒いですよね。
そうそう、オレもかじかんでるよ。

先払いのそのお店で私が会計をしているとき、彼女が私の手を掴んできた。
手の甲を包む、というか優しく触れるように。
あ、ほんと、、

紅茶で温まりながら他愛のない会話が続いたが、私は正直、浮ついていた。急に手に触れられて、ヘンなどきどきがあった。なんだろう。何でこんなにザワつくんだろう。お忍びの雰囲気もあり、やたらと他人の目を気にしてしまう。

そんな中、私が自宅に帰る時の家族の話題になった。先週、帰っていたこともあり、素直な気持ちを吐露した。

娘はもう大人で、そんなに会話はないこと
素直に育っていて、心配していないこと
妻は、自立していてお互いを独立した存在でみていること
もう男女ではないこと
家族から感謝されるような雰囲気がなくなったこと
なんとなくやるせない気持ちがあること

普通に考えれば、それはただの愚痴だ。
いつもの自分ではない。
しかし、不思議と彼女の前では素直に話していた。

毎日、職場とアパートの往復で、自分という存在を空にしていること
そんな自分には職場を離れると充実させられる時間などないこと
つまらないと感じ、空虚を感じていること


わかります、と言ってくれた。
時間に追われ、子ども二人を育て、家事にも追われ。
少しはいい服も着たいし、アクセもお洒落も、
そもそも、そんな買い物に行く時間もなく。
素の自分に戻るのは、お風呂に入ったときくらい。。
いつもひとりですし。
そんな自虐を、明るく笑った。

大人になり、抱えるものがあると、そうなってしまうよね。

美しいものを見て、あったかいお茶とおしゃべりで、何だか和らいだね、というまとめがあって、店を出た。帰り際、またアプリでトークしていいですかと聞かれて、全く問題ないよ、俺はヒマだからどんどんしてね、と言って改札で送る。

背中を見送り、踵をかえす。


何だろう、この感触。
胸の内がすこしあったまるような
気が楽になるような、
身体がかるくなるような
よかったな、たのしかったな、と純粋に思った。

その夜、寝る前にお礼のメッセージが届いた。
そのメッセージには、いつものかしこまったお礼に加えて、またこのような機会を作ってほしいですと綴られていた。

少し込み入ったメッセージのやりとりが始まったのはその頃からだ。

彼女とのおしゃべりが止まらない。
メッセージのやりとりが楽しい。
いつまでも続く。

スーツを脱いで、素の自分になって交わす会話が
なぜ、こんなにも心地よいのか。

超えては行けない線
近づいては行けない場所
落ちてはならない沼

目の前にあることを理解していたが
自分の気持ちは、知らぬ間にもうそこに存在した。


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