遠い存在の人を、悼む。
土曜の午後、携帯が鳴った。
「三浦春馬、亡くなったって」
友人からのLINEだった。
新型ウイルスの感染者数が増えたニュースが流れ、今週末も引きこもろうとたくさんの食料品を買い込み、重い足取りで歩いていたところに飛び込んできた、有名人の訃報だった。
俳優の三浦春馬さんの作品は、いくつも観たことがある。私は「14才の母」は観ていなかったので、「ブラッディ・マンデイ」が三浦さんを認識した初めての作品になると思う。直近では「銀魂2」の伊東鴨太郎役を務めたのが三浦さんで、いつもの印象と違うその雰囲気に、その演技力の高さにあっという間に惹きこまれ、映画館で観たのにまた配信で観直したほどだった。「かっこいいし、演技もうまいなあ」と思っていた。
もちろんお会いしたことなどない。私はあまり舞台を観に行かないので、その姿を遠くからでも見たことはない。
なのに、なぜ、こんなにも三浦さんの死が、ずしんと、ずっと心に張り付いているのだろう。なぜ、三浦さんが亡くなった日何も手につかなくなり、翌日の日曜も鬱々とした何かが、こびり付いていたのだろう。
あらかたニュースの情報を追いかけた後、友人知人でもないのに、遠い有名人の話なのに、なぜこんなにも心に靄がかかるのか、感情移入のしすぎだ----。そう思った。
だけど、Twitterやインスタグラムを見ると、「今日ずっと泣いています」「突然のことにびっくりして、言葉になりません」「三浦さんの大ファンだったわけではないのに、すごく悲しくて涙が止まりません」そんな言葉がたくさん、たくさん並んでいた。多くの人が、私と似た感情を抱いていているように感じられた。
「大ファンではないのに」は私も一緒だ。三浦さんからしたら、そんな不要な枕詞をつけられて、困らせてしまうかもしれない。(いやでもきっと優しい三浦さんはそんなそぶりを見せなさそうだ)
この訃報を聞いて、一日塞ぎ込んでしまうほどの気持ちになること。涙が出てしまうこと。そんな自分に対して罪悪感が生まれたけれど、そんな自分が情けない、恥ずかしい、と思ってしまったけれど。テレビの向こう側にいた、舞台の上にいた、笑顔だったその遠い遠い人は、何かしらの理由で突然亡くなってしまった。その人の生きている姿はもう観ることができなくて、新しい作品に触れることは不可能で。それを悲しむことの、何がいけないというのだろう。その感情に罪はなくて、その感情は特に、別に、とても自然なもので。そしてきっと、なんとなく、それを三浦さんは許してくれそうで。でもそんなことは勝手なこちらの想像で。そんなことが、そんなようなことが、全部、全部自分の中の感情としてぐるぐる回って、梅雨の名残のじっとりとした空気のようにまとわりついてくる。
今日は月曜日。いつも通り仕事をしていたけれど、何度か三浦さんのことを思い出さずにはいられなかった。またちょっと、申し訳ないような、でもすごくかなしい、そんな気分になったけれど、そんな自分を許そうと思う。
そして、できるのは悼むことだけ。
天国に向けて、祈ることだけ。
どうか、どうか、幸せに、と。
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