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暖炉が欲しい

先日から、暖炉が欲しくって仕方がない。もちろん、今時の家屋に昔ながらの暖炉を据え付けるのは、どう考えても無理だが、探してみると今は、電気ストーブで暖炉を模したものが結構ある。
最近、徐々にだが自宅に据えた物は、定時にメロディーの流れる振り子時計や(本当は、八角の鳩時計が理想だったけれども、お値段的に断念した)、アラジンの薄緑のオーブントースターや、あとこれはスペース的に我慢しているけれども、ゆったりとしたソファが本当は欲しい。
どうも、羅列してみるとそれは、昔のそれも欧米の平和な中流家庭にありそうだったものばかりであって、私は実はさびしいのかなぁ、孤独なのかなと思い至ることもある。でも、今現在の私の答えとしては、敢えて古語を利用して「寂しゅうない」と、言いたくなってしまっている部分もあるのだ。
普通に考えたら、両親が立て続けに他界して、唯一の肉親の弟とも距離的に大きく離れて一人暮らしをしている私はとてもさびしい筈なのだ。なのに、どうして「寂しゅうない」と、答えたくなってしまうんだろうか?もちろん、周りをやたらと心配させたくないのはある。それはある。
でも、本当の理由としては。
たぶん、私は家族と暮らしている頃、めっぽう寂しかったのだと思う。彼らは、私のほんとの気持ちにも私のことにも全く無関心でいて、ただただ自分のニーズを私に埋めて欲しくって、それで私はいっぱいいっぱいだったのだ。そこに、私自身の存在は皆無だった。いや、本当はあったのだけれども、必死で我慢して押し殺すしかなかった。そこに経済の問題も深く絡んでいた。
だから、私は今自由な一人暮らしをようやっと手に入れて、こう言ってしまうのだろうと思う。「寂しゅうない」と。
ありのままの私を、否定しかできない人たちと同じ空間を共有するのはさびしかった。孤独だった。めっぽう辛くてしんどかった。

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