見出し画像

血縁という呪縛、リアルという限定

この記事における「不適切にもほどがある!」への指摘は、本当に的確だと思う。「近年のクドカン作品はどれも、血縁やイエ制度、家父長制をグロテスクなものとして描きながらも、最終的にはそれを否定しきれずに“感動”や“エモ”へと回収してしまうものが目立つ。」リアルで一番濃い縁は普通、肉親のそれであるが、子どもを殺す親だって世の中には、枚挙に暇が無いほどいるし、逆に親が大嫌いな子どもも、山のようにいるのだ。そもそも、現代詩はその呪縛への対抗として生まれおちたのではなかったか。「ロボットやSNS、AIといった顔の見えないシステムやツールの杓子定規な運用に対して、大きな不信を抱いているということ。その反面、顔の見える生身の人間との直接対話には、絶大な信頼を置いているということ」にしても、現実には、リアルであっても人は人を平気で騙す。その温床である現実=世間の昏い闇を、近代の文芸は何度も何度も書いてきたのだ。
「血を分けた家族なんだから」という呪縛が温存してきた問題は、毒親による支配や虐待、貧困の連鎖、老老介護など枚挙に暇がない。」クドカンは、何かから目をそらしている。私は、血縁という呪縛を解き、リアルという限定を超えて翔ぶ魔女でありたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?