記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

ありがとう、さようなら、おめでとう(シン・エヴァネタバレあり)

 

画像1

 エヴァンゲリオンは「大人になれない人たちが大人になる物語」という認識だが、僕はこれまでずっと「大人になれない人たち」は誰で、「大人になる」とはどいうことなのかが今ひとつ理解できていなかった。しかしシン・エヴァの2回目でようやくそれが分かった気がする。
以下、ネタバレありです。

「大人になれない人たち」とは誰か

 言うまでもなく筆頭はシンジである。しかしシンジだけではない。ゲンドウもそうだし、アスカもレイもカヲルくんもそう。そしておそらくは僕たちファンもそう。「俺は大人じゃい」と憤慨する人もいるだろうが、ここで言う「大人」は「ある程度の年齢で、社会に出て働いていて、きっちり税金を収めている人」のことではない。エヴァという作品が示す「大人」はもっと抽象的な存在だ。「自己完結せず、社会と繋がりを持つことができる人」「自分の使命を正しく理解している人」のことじゃないだろうか。使命は仕事と言い換えてもいい。

②「エヴァンゲリオン」とは何だったのか

 ではどうしたら「大人になれない人たち」が「大人」になることができるのだろう。
 それこそが「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」なのだ。
 ここで疑問に思うのが、「エヴァンゲリオン」に別れを告げることがなぜ「大人」になることに繋がるのかということ。
 それを理解するには「エヴァ」とは何かを考えなければならない。
 僕は「エヴァ」とは「虚構の使命」を象徴するものだと思う。より具体的に言うなら「『これこそが自分の使命だ』と自分勝手に思い込んでいるもの」だ。
 上述した「大人になれない人たち」はみんなその「虚構の使命」に取り憑かれている。
 シンジはひとまず置いておくとして、アスカにとっての「エヴァ」「みんなを守るためのもの」。カヲルにとっては「シンジを幸せにするためのもの」。ゲンドウにとっては「人類から差別を取り払うためのもの」。レイはそもそも存在自体が虚構的(最初から自分の意志がない。誰かに作られた存在)。
 みんなそれなりに使命っぽいものを持っている。だけど本当はそんな使命なんてない。自己完結的な願望にそれっぽい理屈をつけているだけ。だからアスカにとっての本当の「エヴァ」「他人に自分を認めさせるもの」。カヲルにとっては「自分を幸せにするためのもの」。ゲンドウにとっては「ユイと再会するためのもの」。他人や外の世界に向けているように見えて、本当は自己完結しているだけなのである。本当はそんな使命なんてない。エヴァに乗ることは単なるワガママで、使命でもなんでもないのだ。だから彼らが大人になるためには「虚構の使命」である「エヴァ」と「さようなら」をすることが必要になる。エヴァが象徴する「虚構の使命」を手放し、自分だけでなく他人に目を向け、社会と繋がりを持つことで「大人」になれるのだ。
 さて、シンジを省いたのは、シンジだけはアスカたちと少し立場が異なっているからだと思ったからである。
 エヴァの作中には3つのタイプのキャラがいると思う。「大人」「大人になろうとしている子ども」「単なる子ども」の3つだ。
 ほとんどのキャラが「大人」「大人になろうとしている子ども」に分類されるなか、シンジだけが「単なる子ども」なのだ。本当に何も知らない「子ども」で、やりたいこともやりたくないことも分かっていない。自分の世界に引きこもっているだけ。しかし第三村や綾波(仮)との関わりを通じて、自分の「使命」らしきものに気がつく。(この「使命」はもちろん「虚構の使命」)。シンジはここで「単なる子ども」から「大人になろうとしている子ども」に変化する。シンジにとっての「エヴァ」「ゲンドウを止め、みんなを救うためのもの」になる。そして彼はおそらく「エヴァ」「虚構の使命」を象徴するということを分かっている。だからマイナス宇宙でゲンドウやアスカ、カヲルを助ける。ただしこれはシンジの記憶のなかでだけの話で、実際には彼が助けたわけではない。「みんなを救う」のはシンジの「虚構の使命」なので、ほんとうの使命じゃない。だから最後ガイウスの槍で自らを貫こうとしたとき、「大人」である母・ユイが助けてくれた。「それはあなたの役割じゃない」ということなのだろう。
 冒頭で「大人」とは「自己完結せず、社会と繋がりを持つことができる人」だと述べた。これではまだ抽象的すぎてよく分からないと思う。そもそも「社会」ってなんだという話である。これは1つは「家族」のことではないだろうか。家族は人間社会の最小単位で、家族を持つことが「社会とつながりを持つ」ことの第一歩になる。そしてその準備段階として必要になるのが「パートナー」を見つけること。だからエヴァから解放された子どもたちは最後にそれぞれパートナーと一緒にいるのだろう。アスカはケンスケのもとに(エントリープラグがバラック小屋のところに落ちてる)行き、レイは駅のホームでカヲルと一緒にいて、シンジもマリとともにいる。「エヴァ」を手放し、「社会」を持ち始め、ようやく本当の意味で「大人」になり始めたのである。

③ 劇中で「大人」だったのは誰か

 主だったところではトウジ、ケンスケ、ミサトの3人だと思う。
 トウジとケンスケは身体的にも大人になり、第3村という社会と繋がっている。二人の職業がそれぞれ「医者」「インフラ管理」という特別な仕事に就いていることからも、彼らは「自分の正しい使命」というものを理解しているんじゃないかと思う(彼らの仕事が社会にどう活かされているのかが作中に示されているから。エヴァパイロットたちは使徒と戦うことが社会にどう影響を与えているのかが描かれていない印象)。
 ミサトはシンジたちと同じ環境にいるため分かりづらいが、彼女だけが自分の正しい使命を理解していたと思う。彼女の使命とは「ヴィレクルーを守り、シンジにガイウスの槍を届けること」。終盤でそれが判明し、ミサトは使命を成し遂げた。ミサトの使命が本物だったことに対する根拠は「命を落としたこと」「行動の結果が描写されたこと」にある。ミサトの行動は正しい使命感に基づいていたから、シンジたちのように救われなかった。正確に言えば救う必要がなかった。命を救えばきっとご都合主義になってしまう。そしてヴィレクルーの脱出船が第3村(=社会)にたどり着いた描写があることで、彼女の使命が正しかったことが証明されている。行動の結果が描かれているからだ。さらに言えばミサトはカジとの間に子どもを授かっており、すでに社会とのつながりを持っていたのである。

④僕たちも「大人になれない人たち」

 僕たちファンも「大人になれない人たち」である。
 ファンはエヴァンゲリオンという作品を正しく理解しようとして考察を重ねてきた。この文章を書いている僕もそうだ。エヴァを通じて庵野監督は何を伝えようとしていたのかを必死に考えてきた。それこそがファンにとっての「エヴァ」だった。つまりすべて「虚構の使命」なのである。エヴァを理解することには何の意味もない。もちろん理解しようとするのは自由だが、どれだけ考えても理解はできないと思う。もともと理解できるように作られていないのだ。だから僕たちもそろそろ僕たち自身の「エヴァ」を手放し、「大人」になるべきなのだ。
 ただし「エヴァ」を手放すことは「エヴァ」をなかったことにすることと同義ではないと思う。キーワードは「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」である。作中でヒカリが言っていたように「さようなら」とは再会を約束する言葉なのだから、完全に忘れる必要はない。僕たちには「エヴァ」を手放すときが来たけれど、時々は「エヴァ」を思い出してみてよね、ということなのかもしれない。
 この文章で述べたことも正解ではない。ただの自己満足である。自分なりに「エヴァ」を理解したつもりになっているだけである。けどそれでいいのだと思う。僕はこれをもって自分の「エヴァ」を手放すことにする。そして「大人」になろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?