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フランク・キャプラ監督『群衆』

作品との出逢いはたまたまだった。ゴールデンウィーク中に、映画を1本観たいなと思い、自宅にあるDVDから未見のものを選んだ、というに過ぎなかった。「あまりよくできた作品じゃないな」と思ったままに、フィルマークスに感想を公開したことを今となっては後悔している。その後何日か、本作への違和感に悩まされることになった。そして英語版のウィキペディアを見てみて、その違和感が邦題に原因があることに気づいた次第である。

レビューサイトなどでこの作品への感想を眺めると、「メディアのフェイクニュースと、それに踊らされる民衆の怖さ」について挙げたものが散見される。物語の発端となった、「ジョン・ドー(※1)という名の男から、新聞社ブレトンに次の投書があった。”自分は数年失業中であり、この貧困は政治のせいである。政府への抗議のため、クリスマスイブの夜に市庁舎から飛び降り自殺する”」という記事は、確かに全くのでっちあげだ。この記事に反響があったことから、ブレトンは求人広告を出して人を集め、元野球選手のジョン・ウィロビー(ゲーリー・クーパー)をジョン・ドーに仕立てる。また、記事を書いた記者アン(バーバラ・スタンウィック)が原稿を書いて、ジョン・ドーに演説させ、ラジオでも放送する。

このストーリーは間違いなくフェイクニュースを描いている。しかし、それをラジオで、あるいは直に演説を聞いた人々が感動したのは、ジョン・ドーの「Be a better neighbor(よき隣人となれ)」というメッセージだった。G. オーウェル『動物農場』における「Four legs good, two legs bad!(四本足(動物)はいい、二本足(人間)は悪い)」というような、無根拠で差別的な、民衆の思考を阻止するためのキャッチコピーとは性格を異にする。ジョン・ドーの演説を聞いて彼に会いに来た人々は、興奮冷めやらぬ様子で自分たちの話をする。「私の家の隣に住む人は、挨拶をしても返事をしてくれなかったので、私のことを嫌いなんだと思っていました。しかし、あなたの演説を聞いて、思い切って大きな声で挨拶してみました。すると、素敵な笑顔を返してくれた。彼は、私のことが嫌いだったのではなく、耳が遠くて挨拶が聞こえなかっただけだったのです・・・」

「群衆」とは、「人々がおおぜいむらがり集まること」であり、そうして集まった人々も指す(※2)。「民衆=世間一般の人々」とは異なり、野次馬にも通じて、愚かな行動をする人々の集団というニュアンスも感じられる。しかしジョン・ドーの理念に共感した人々は、私にはとても愚かな群れには思えなかったのだ。それもそのはず、ウィキペディアに解説があるように(※3)、本作は「草の根運動」をテーマにした作品である。人々の生活の中から生まれてきた理想を社会に反映させようという運動である。本作での人々は意思ある存在で、わけもわからずにジョン・ドーを信奉した人々ではない。本作でとがめられるべきは、発行部数の増加のために個人を利用した新聞社と、ジョン・ドーの人気を利用しようとした政治家たちである。キャプラが描こうとしたのは、人々の愚かさではなく人々への希望だったのだろう。だからこそのラストのセリフ「大衆をなめるな」なのである。

本作の原題はMeet John Doeといい、「群衆」の意味合いはゼロである。どのようにして本作が日本で公開されたかわからないが、恣意的ともとれる邦題により、皮肉にも我々がミスリードされてきたのではないかと思えてならない。

※1 ウィキペディア「群衆 (1941年の映画), 更新日時: 2021年4月16日 10:07 (UTC)」においてJohn Doeには「ジョン・ドゥー」というカタカナがつけられているが、「ジョン・ドー」というカタカナの方が音が近いと思うので後者を採用した。蛇足だが、「市民ケーン(Citizen Kane)」は「市民ケイン」とするべきだったんじゃないか、という声をTwitterで見かけたが、こちらには賛同する。ついでだが、Dr. Noを「ドクター・ノオ」と表記した方には大きな拍手をお送りしたい。重みと陰が感じられてしびれる。
※2 株式会社日本廣告工藝社「社会人の教科書」より
「群集」「群衆」「民衆」「大衆」「公衆」の意味と違い
※3 作品情報に「でっちあげられた新聞のコラムから物語が展開する「草の根運動」をテーマにした映画である。」という記載があるが、誤解を生みそう。「「草の根運動」をテーマにした映画であり、でっちあげられた新聞のコラムから物語が展開する」とすべきでは?

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