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クリエイター堀辰雄の姿勢:大石紗都子『堀辰雄がつなぐ文学の東西 不条理と反語的精神を追求する知性』

標題の本書は堀辰雄についての学術論文であり、一般向けの書籍でないことを初めにお伝えしたい。著者の大石紗都子氏は、少年画報社刊のコンビニコミック、『ねこぱんち』および『思い出食堂』シリーズ(こちらには私も参加させて頂いている)で、夏目漱石に関する原作・資料提供をなさっていることから私もお名前を存じ上げ、その著書にも興味を持ち、レビューに取り組んでみた次第である。

本書は堀辰雄の『美しい村』『風立ちぬ』をはじめとして、『曠野』などその作品群の背景にあった堀の文学的蓄積をひもとき、それによって堀が伝えようとしたものはなんだったか、を論ずるものである。第一部でおもにプルーストやゲーテをはじめとする西洋文学からの影響、第二部および第三部で『伊勢物語』『更級日記』『今昔物語集』などの我が国への古典作品へのオマージュの解説がなされる。

私は文学研究について知識を持っていないので、正確に理解できている自信は全くないし、正直に言うと本書を読むこと自体、闇夜を歩くような冒険だった。しかしむしろそこでこそ、かそけく浮かんでは消える蛍の光のように、ときおり私の心に飛び込んでくる一節がある。たとえば『風立ちぬ』のタイトルにもなっている「風立ちぬ、いざ生きめやも」というフレーズについての解説がなされる。ここは少し複雑で、乱暴なくくりになってしまうかもしれないが、本書44-45頁によると、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』の詩句、”Le vent se lève, il faut tenter de vivre."を踏まえたものである。この詩句は本来「生きようとしなければならない」というニュアンスである一方、堀の「いざ生きめやも」は「生きていられるだろうか、生きられはしない」という真逆の意味合いとなり、「誤訳」と論じられてきた、とある。大石氏はこれに異を唱える。

おそらく堀は、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、”Le vent se lève, il faut tenter de vivre."とを使い分けている。・・・作中に五七調で挿入される「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、五章全体の冒頭に置かれたヴァレリーの原詩とは、最終的に異なる意味合いを帯びているとみるべきではないか。(46頁)

文学作品において、「エピグラフ」という、本文の前に詩からの引用句などを置く形式があるが、それにのっとるともちろんヴァレリーの詩句を「風立ちぬ、いざ生きめやも」と「訳した」と見るのが通常だろう。しかしながら、本書での論は、堀がヴァレリーを踏まえた、オリジナルな表現なのだという説である。日本には古今和歌集の時代から脈々と続く「本歌取り」の伝統があるが、その上での堀の遊びとも考えられるこの説は、私にとって聞いたことのなかったひとつの可能性であった。本書で語られる、堀の古典作品への相当な理解と傾倒の解説があればこそ、説得力を帯びる説であるといえよう。

本書から私はこう感じた。堀は文学作品という「コンテンツ」の力を信じていた人だった、と。古典作品がどうして生き残ってきたか、その側面を理解していた人だったと思う。人間のいじらしい生への執着をすくい取って文学作品として構築することで、名もなき人たちの心を後世に残そうとしたのではなかったろうか。

意のままにならない現実を認識し、自らの信念との相剋に苦しむことは、王朝時代の女性に留まる問題ではない。堀は古典文学を題材として、崇高さを失わず《生きながらへ》た人物を描き、また同時に、たとえ表面的にはそれが報われないようにみえても、他者のまなざしの中で自身すらそれと知らずに救われる生の表象を描き続けていた。(177-178頁)

大石氏の筆致は、堀作品の静謐(せいひつ)なそれに似ていて、さながら絵画作品の解説書のような雰囲気を醸し出しているが、その主張には大いなる熱が感じられる。膨大な参考文献群からも伺えるように、すでに研究がしつくされた感のある一作家について論ずることのプレッシャーは大きかったろう。だが私はこの本を読んでいて、私が文学に興味を持つきっかけになった、中学や高校での現代文の恩師たちを思い出した。森鴎外、横光利一、川端康成、中島敦といった文豪たち、それから彼らの表現、モチーフの選び方や技法を、熱をもって語ってくれた恩師たちを。すぐれたコンテンツはやはり面白い。そして、その背景を知ればますます面白くなる。このまだ若い研究者が、これから何を論じ、どんな世界を私たちに見せてくれるのか、とても楽しみにしている。

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晃洋書房の紹介ページ

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