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周辺によって浮き上がる存在 レミ・シャイエ監督『カラミティ』

アメリカの西武開拓時代。新天地を求めて厳しい旅をする一団。その中にいた少女、マーサ・ジェーンの成長ストーリーであり、フランスおよびデンマークのアニメーション映画。実在した、初の女性ガンマン、カラミティ・ジェーンと言われる女性の子供時代である。

「信念を曲げない」「男まさり」「自分らしく」…公式サイトのコメントなどに見られる、当然に生じうる感想を見るにつけ、どうにも違和感を感じてしまっていた。確かに彼女は物おじしない、強くて聡明な女の子だ。しかし、マーサは好きで「髪を切り、ジーンズをはいた」わけではない。母親を失い、父親が馬に蹴られてあばら骨を折るという大けがで動けない中、父親の代わりに働くために、スカートでは上手く動けないのでズボンを履いた。長い髪を洗っている途中、野獣に襲われかけたこと、男の子に髪を引っ張られて倒されたことなどから、弱みとならないために髪を切る決心をした。生きるために必要な方法を自分で考えて実践したに過ぎないのである。なお、公式パンフレットの登場人物説明においても、「「彼女は決して戦闘的ではない」と脚本チームは説明する。彼女はあくまで、「置かれた状況に柔軟に対応しているだけ」なのだ」という一文(※1)がある。

ひとつの物語において、観客は主人公と自分を重ね合わせる。しかしマーサは自我を通そうとしたわけではない、と感じたとき、私は彼女の周囲の仲間と、私自身に思いを馳せざるを得なかった。
男性のすべき仕事、女性のすべき仕事をよりわけ、それをしているかどうか、他人を監視していないだろうかと。
明確なルールではなく、「空気」に従わない存在に冷たい視線を向けてはいないだろうかと。
客観的なデータに基づく判断ではなく、権威におもねった判断をしてはいないだろうかと。

私の観たのは字幕版だが、予告編のラストでも「あだ名は災いカラミティ」とマーサ自身が言うように、"災い(疫病神、厄介者)”を表す言葉は、自身で選んだものでなく、周囲が彼女に貼ったレッテルであった。あからさまな侮蔑の、残酷な言葉である。そう言った人々の前に彗星のごとく現れ、死の危機から救ったときに、マーサが誇らしげに言う「あだ名はカラミティ カラミティ・ジェーンよ」というセリフは、自身を馬鹿にした人々への強烈で皮肉な一撃となった。胸のすくクライマックスであるが、その一撃は自分が受けたものではないと、本当に言えるだろうか?

本作品のタイトルは『カラミティ』であり、『カラミティ・ジェーン』ではない。原題は"Calamity, une enfance de Martha Jane Cannary”であり、「カラミティ」に「マーサ・ジェーン・キャナリーの幼少時代」という副題はあるが、メインは「カラミティ」だ。つまり私はこう考えるーーカラミティ・ジェーンその人をモチーフにしたものではなく、「浮いた存在」をモチーフにしたものではないかと。効率的に行動しようとしている存在と、その人を「風習にそぐわない」として無視したり押さえつけたり排除したりする存在の温度差を描くことで、前者が「カラミティ」として浮き上がる。しかしその「カラミティ」こそが、コミュニティの危機を救う存在になるのかもしれないーーそういうメッセージではないだろうか。

本作品には「絵に輪郭がない」という特徴がある。もちろんこれは監督の前作『ロング・ウェイ・ノース』にもみられるシャイエ監督作品の見どころではあるが、「周囲との色分けで絵を描く」という技法そのものが、マーサの描き方とリンクしていると言ったら考えすぎだろうか。レミ・シャイエ監督はジブリ映画のファンでもあるそうで、本作品の淡いキスシーンは、私の大好きな『紅の豚』のオマージュとも思えて嬉しかった。だがもともと宮崎駿監督、高畑勲監督らは、ヨーロッパのアニメ作品に導かれてきた人たちである。ここに至っても、アニメーションにはまだまだ大いなる力があると、その魅力に改めて引き込まれずにはいられない。

『カラミティ』公式サイト

※1 「CHARACTER」「キャナリー家」の「マーサ・ジェーン」の説明文章にて。

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