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メディアの陰と光 鈴木アツト監督、劇団印象舞台作品『ジョージ・オーウェル~沈黙の声~』

戦時下にあって、人々の士気を鼓舞し、正確でない状況を伝えるために使用されたラジオ。そのラジオを使って、映画『グッドモーニング、ベトナム』のエイドリアン・クロンナウアは、死地に赴く若者にひとときの笑いと慰めを与えた。『ライフ・イズ・ビューティフル』のグイドは、離れ離れになっている妻に愛を伝えた。そして本作のジョージ・オーウェルは、抑圧された世界に文学を届けようとした。

『1984年』『動物農場』など、オーウェルの著作をリメイクした舞台、漫画、映画作品は数あれど、本作品はオーウェルその人の人生を描いた舞台作品である。舞台は1940年のロンドンから始まる。著作がなかなか売れず、糊口をしのいでいたオーウェルが、『1984年』に着手するに至るまで。オーウェルとその妻アイリーン、出版社の社長や当時オーウェルが勤めていたBBC(英国放送協会)の仕事仲間、そして同時代の作家であるキャサリン・バーデキンらとの会話を通じて、オーウェルの背負ってきたもの、苦悩、そして未来への道を浮かび上がらせていく。なお、ここではオーウェルは本名である「エリック・ブレア」として登場するが、紛らわしくなるため「オーウェル」で統一する。

本作品はフィクションだが、彼の生い立ち、健康の実態、過去の著作など、今まで研究書でしか見てこなかったものがセリフとなって出てきて、研究者やコアなファンでも、心くすぐられる場面も多かったのではないだろうか。メインになったBBC勤務については、史実としては、1941年からBBCの海外放送局東洋部インド課に勤務し、約2年間BBCで番組制作にかかわったという。「文芸番組」と「戦況ニュース解説」の二つに関わり、前者はラジオというメディアを通じて詩の可能性を探るも、後者ではインド向けにイギリスのプロパガンダを流すこととなり、劇中にあったように、検閲には苦しめられたという。ビルマでの警察官時代やスペイン内戦従軍のみならず、BBCという組織での経験が『動物農場』そして『1984年』の土壌となったことは想像に難くない。

ところで、この作品でユニークといえるのが、キャサリン・バーデキンの登場である。「マーレ―・コンスタンティン」という男性のペンネームを使用していた彼女は、これまでほとんど顧みられることなく、1937年に発表された『鉤十字の夜』(”Swastica Night”)という代表作の日本語の全訳が、2020年に発刊されている。バーデキンとオーウェルが、互いの名前は知っていたとしても、劇中のように面識があったかは不明である。いささか唐突というか、とってつけたような登場にも思えるが、これはフィクションならではの問題提起といえよう。オーウェルは時代と闘った存在だったが、一方で「白人男性」というマジョリティでもあった。エキセントリックなふるまいをするバーデキンの言葉は、しかし、切実な女たちの思いである。

アイリーン なぜ男の名前で小説を?
キャサリン なぜ女が小説を?って聞かれないために。
アイリーン ・・・
キャサリン 女が小説を書いて生きていくのは簡単じゃない。偏見だってある。中傷だってある。

鈴木アツト『ジョージ・オーウェル~沈黙の声~』戯曲、劇団印象、2022年6月2日版、55頁。

オーウェル作品において、登場する女性にリアリティがない、という点は、研究者の先生方からも以前から指摘されていた。彼は植民地の人々、労働者といった弱者に対しては味方になろうとしたが、女性という弱者に対しては無頓着だったーー時代を鑑みても多くの男性が同様だったろうがーーと考えられる。オーウェルが完全なヒーローではない、ということが、バーデキンの登場を通じて描かれたのではないだろうか。アイリーンは、オーウェルのサポーターとして生きることに喜びを見出しているが、それはあくまで「アイリーンの場合」でしかない。結果としてバーデキンは救われなかった。共通する課題に、個人の体験や希望を根拠にして解決しようとすると、問題を見誤ってしまう、そういう側面もひとつテーマだったかもしれない。

とはいえ、オーウェルが生涯を通じて追い求めた「人間らしく生きること」は、人間に共通の課題である。オーウェルは『なぜ私は書くか(Why I Write)』で述べる。政治の話を、文学(art)にしたかったと。劇中でバーデキンが言う「評論を読むのはインテリだけよ」というセリフは、裏返せば「文学はより多くの人の心に届く」ということで、そこではバーデキンもオーウェルも、一致していたのだろう。

エリック(オーウェル) たとえ今が、一秒ごとに一人、人間が戦闘で死んでいる時代だとしても、(中略)私は詩を、詩人の声を届けたいのです。この番組は、「ヴォイス(声)」という名前になります。(中略)・・・文学は・・・文学とは・・・言葉を、声を、天空に向けて送り出し、その可能性を信じることなのです。

鈴木アツト『ジョージ・オーウェル~沈黙の声~』戯曲、劇団印象、2022年6月2日版、73頁。

教育の場からも文学というジャンルが縮小されていると聞くし、フィクションは取るに足らないものだという声が投げられる。しかしそのかそけき光でもって、人々は歩いてきたのではなかったか。オーウェルは言う。「はたしてマイクロフォンが、詩を一般大衆のもとに戻すための道具となるのかどうか、定かではない。詩が、書かれたものよりもむしろ朗読されるものとなることによって、益するところがあるかどうかは、なおさら定かではない。しかしそうした可能性があるのだということ、そして、文学を愛好する人々はこのひどく軽蔑されたメディアにもっと多く目を向けた方がよいということは言っておきたい」(※1)

メディアはあくまで手段でしかない。オーウェルはラジオという手段を駆使して、文学を伝えようとした。そしてフィクションである本作品により、オーウェルの声が、劇場というメディアを利用して観客に伝わったのだと思う。しばらく忘れてしまっていた、演劇の持つ魅力に、改めて心動かされている。

※1 オーウェル、ジョージ、川端康雄訳「詩とマイクロフォン」、川端康雄編『水晶の精神 オーウェル評論集2』平凡社、1995、144頁。

【参考文献】

  1. 川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への讃歌』岩波書店、2020。

  2. バーデキン、キャサリン、日吉信貴訳『鉤十字の夜』水声社、2020。

  3. Orwell, George. "Why I Write" London: Penguin Books. (First published by Secker & Warburg 1946)

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