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男性が描く女性と子供たちの物語 久松静児監督『月夜の傘』

冒頭で子供たちがシューベルト作曲『野中の薔薇』を歌っているが、向田邦子は「のなか」を「よなか」、つまり『夜中の薔薇』だとずっと思っていた、というエピソードがある。『月夜の傘』も、月夜に傘は要らないのであって、なにか「夜中の薔薇」みたいな勘違いか、言葉遊びのようなものを考えていたら、見つけたのが「月夜の蟹」。月夜に捕れる蟹は身がやせていて美味しくないことから、「見掛け倒し」を意味することわざだそうである。本記事で取り上げる映画(本作品)の原作は壷井栄の同名の小説。壷井栄といえば代表作は『二十四の瞳』だが、その第六章のタイトルこそ「月夜の蟹」であった。

だが、その第六章を読んでも、それと「月夜の傘」の関係はつかめず、小説『月夜の傘』にあたっても「月夜の蟹」とのつながりはわからず。小説のラストには、月夜に傘をさして歩く、主人公の夫の姿が出てくるが、可笑しくはあっても見掛け倒しには見えないし、私の拙い謎解きは、あっさり頓挫した次第。わかったのは、この2時間近くある本作品の原作はごくごく短い小説で、『ピアノ』という別の小説も組み入れられているということだった。また、両小説は主人公の一人語りであり、劇中のセリフはほとんどが、井出俊郎による脚本で作られたものということだった。

本作品では時代の犠牲となった女性たちが描かれる。ピアニストだった一人息子を喪い、形見のピアノで毎日のように「さくらさくら」を弾く江藤とみ(東山千栄子)。とみは生活費としてピアノを売りたいが、その値段ゆえに、近所同士の共同購入でもあきらめムードが出ていたところ、ある家のお手伝いさん、宮島弥生(飯田蝶子)が出資を申し出る。「それまでコツコツと貯めていたお金が"夢のように消えてしまった"(※1)が、それからどうにか頑張って、また貯金したから、また失うかもしれないことを考えたら、そのお金をピアノの購入資金にあててほしい」というのだ。ろくすっぽ興味を示さない男性たちに対し、音楽を大好きな子供たちが楽しめるよう、知恵を出し合って皆でピアノを弾けるようにしたのは女性たちだった。

また、原作にはない重要なセリフもある。

「お母さん、お母さんはいつも井戸端会議で何を話してるの。家庭の幸福だとか、主婦の幸福だとか、口ではりっぱなことを言ってながら、お母さんたちのしてることは何なの。いつだってお父さんの顔色ばかり見て、何一つ自分の言いたいことは言わずに、いつもお父さんのお尻にくっついてるばかりじゃないか。そういう態度が親父をあんなにしてしまったんだ。結婚して二十年にもなるのに、なぜお父さんと肩を並べて、正々堂々と歩いていく気になれないの?おかあさん、僕の言う意味わかる?」
映画中のセリフより

これは、子供たちが自分達で懸命に考えて完成させた鶏小屋を、父親の大事にしていた苔の上に作ってしまったために、父親が激昂して叩き壊し、その後親子間が険悪な雰囲気になってしまったときの、子供から母親に対するセリフである。母親には厳しかったかもしれないが、大人になった以上は、女性とて一方的な弱者ではない。子供たちを守るために闘わねばならないのである。

素朴な郊外の暮らしと、ピアノやハーモニカで時おり奏でられるクラシックの名曲。名優たちの笑顔に彩られ、終始牧歌的でのどかな雰囲気に包まれるこの作品を、「ノスタルジック」「古き良き時代の日本」と見ることは無理からぬことかもしれない。しかしながら、描かれるのは強者の論理に振り回される人々、プライバシーのなさなど、田舎暮らしの残酷さでもある。鶏小屋を壊された事件は、他人を言葉や論理でなく、権威や暴力で押しつぶそうとする、封建的な世界のメタファであるだろう。これは憶測に過ぎないが、映画の評論家には男性が多く、それがゆえに女性の声が描かれても「見えなくなっていた」ことはないだろうか。とりわけ、(原作が女性とはいえ)男性の監督、脚本による映画ということで、偏見をもって見てしまうことはないだろうか。国文学者の田中貴子氏は次のように述べる。

・・・日本近代史研究者の荻野美穂氏は示唆的な発言を行っている。
「・・・(中略)現代の社会の中でフェミニズムの立場に立つ研究者が、現実の運動の中で育まれた問題意識や新しい視点を歴史研究の場にもちこむことによって、女性史は従来の歴史学の概念枠組みや主題や価値基準を変えることができるし、変えていかなければならない。・・・」
・・・私がこの萩野氏の発言を借りて強調したいのは、女性という立場や視点を研究の場に持ち込むことによって従来の概念枠組みや価値基準を解体し、新たな研究方法の可能性を開くことへの期待なのである。(※2)
田中貴子「中世文学における女」というテーマをめぐる問題

公開は1955年、白黒映画で発信されたこの声が、世の中にどれだけアピールしただろうか。女性や子供たちの声は、可愛らしさや郷愁のイメージの後ろに隠れたまま、読み取られなかったのだろうか。今観ても当時の哀しみを共有できることに、名画の力を感じつつ、残念な気持ちが起こるのも正直なところである。過去の映画評にこだわらずに、フェミニズムという視点で自らテクストにあたり、考える拠り所とするにおいて、日本の名画たちは決して貧弱な材料ではないだろう。

※1
歴史上、「預金が引き下ろせなくなった」事件があったのだろう。見つけることができなかったので、ご存じの向きはお知らせ頂ければ幸い。
※2
なお、本論文において、荻野氏は「だが改めて言うまでもないことながら、それは現在のフェミニズムの都合に合せて歴史を切り取ることではない。」、田中氏も「しかしまた、一部の性急なフェミニストが行っているような、古典文学をフェミニズムの視点だけから一方的に読み説いて男性を弾劾するというような行為も、古典国文学がフェミニズムに都合よく消費されてしまう事態を招きかねない。」と述べている。

【参考文献】

  1. 久松静児監督『月夜の傘』日活株式会社、1955公開。Amazon Prime、2022年12月3日閲覧。

  2. 壺井栄『ピアノ』(昭和27年(1952年)8月25日「別冊文藝春秋」)・『月夜の傘』(昭和28年(1953年)8月1日「オール読物」)、『壺井栄全集5』文泉堂、1997。

  3. 田中 貴子、シンポジウム「中世文学における女」『「中世文学における女」というテーマをめぐる問題』、https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/40/0/40_40_20/_article/-char/ja/ 、2022年12月3日閲覧。



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