メモ(宗教改革とカルヴァンの意義)

◎「恩寵により【義人に成る】」か「キリストの義が転嫁されて【義人と見なされる】」かの違いはあれど、ローマ・カトリックもルター派も、「神=裁判官/人間=被告」という人間観、それに基づく「被告である人間が、裁判官である神からの無罪判決(義認)を得る」という救済観は共通している。
いわば登る道が違うだけで目指す山頂は同じ。

◎しかし、裁判官にとって刑罰はそれ自体が目的ではなく、「社会の平和・安全を守る」という目的に向けた手段であるはずである。
同様に、神が厳格な裁判官として振る舞うのは、「自分の許から彷徨い出た放蕩息子たちを立ち帰らせ、親子としての親しき交わりを回復する」という目的に向けた過程と言えるのではないか。

◎その点をカルヴァンは、「福音の根幹とは、世の始めから神の子として選ばれていた者が、信仰によって目を開かれて真実の父・真実の故郷へと帰って行くこと(子とされる)」と見事に言い当てた。
後に、カルヴァン派信仰告白の代表というべき『ウエストミンスター信仰基準』においては、この「子とされること」は信者がキリストから受ける益として、義認や聖化と並び明記されている。

◎しかも『ウエストミンスター』において「義認」「子とされる」「聖化」は互いに独立した、無関係な事柄ではない。
人は神の子とされるためにまずキリストの義によって罪を覆い隠され(義認)、神の子とされた者は聖霊の助けを受けて神の子という身分に相応しくなるように成長していく(聖化)。
「神の子とされる」という、人間にとってこの上なく重要な救いの土台及び成果として、義認と聖化は位置付けられているのだ。

◎1517年10月31日にルターが「九十五箇条の論題」を掲示し、1000年に余り西欧を支配していたカトリックの救済観・教会観に疑問を投げ掛けたことから、宗教改革が始まったとされる。
以来プロテスタントでは多くの教派や神学思想が生まれたが、「神=裁判官/人間=被告」というカトリック以来の人間観(無論それ自体は間違いではないが)を前提とした神学や伝道は、プロテスタント諸派においても継承され、むしろ現代の福音派においてはカトリック以上に強調されている。

◎しかし「汝は罪人なり、その行く末は死後永遠に続く地獄なり、地獄が恐ろしくば悔い改めよ」という"福音"は、どれだけ現代人の心に刺さるだろうか。
というより、それは福音本来の温かみや、人を立ち上がらせる力強さをどれだけ含んでいるだろうか。

◎カルヴァンその人に長短功罪があることは否定出来ない。
しかし「神=父/人間=子」という人間観に立った彼の神学には、是非食わず嫌いせず多くの人に触れてほしいと願っている。



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