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真実は人の数だけ

「真実はいつもひとつ」

とは、見た目は子ども、頭脳は大人の名探偵の決め台詞だが、心理カウンセラーを生業にしていると、

「真実はいつも人の数だけ」

とつくづく思う。
 
親と子、夫と妻、姉と妹・・・同じ出来事でも立場が違うと、まるで違う経験をしていて、違う感じ方をしていることが珍しくない。一方にとってすごく傷ついた言葉や態度を、もう一方は全く覚えていないということもあるし、片方が相手のためを思って一生懸命やったことが、相手にとっては迷惑だったり負担だったりすることもある。毎日一緒に暮らして、よくわかっていると思っている、家族であっても。
 
例えば、母が高校生の娘のために、毎日お弁当を作っているとする。そのお弁当には、頻繁に唐揚げが入っている。母は、ちょっと手間だが、娘が喜ぶと思って、朝早くから娘の好物を作って入れていた。しかし娘は、毎日のように唐揚げを食べているのを友だちに揶揄されてから、人前で唐揚げ入りのお弁当を広げるのが恥ずかしく、唐揚げを入れてほしくないと思っているとする。
 
このとき、客観的な事実は、母が娘にお弁当を作って持たせる。そこには頻繁に唐揚げが入っている、というだけだ。それを作る側の思いも、受け取る側の思いも、客観的な事実には含まれない。だとしたら、客観的な事実に大した意味はない。そして、娘の思いも母の思いも、真実だ。だから、真実は登場人物の数だけ。
 
ここで、カウンセラーとしての提案。他人の真実は基本わからないので、想像はするけど決めつけないこと。自分の真実が何か、を注意深く観察して理解すること。そして、時にはお互いの真実をすり合わせること。
 
お弁当の例で言えば、娘が母に、

「もう唐揚げ入れないで。いつも唐揚げだねって○○ちゃんに言われて嫌だから」

と話したとする。しかし母は、
「でも唐揚げが好きなんだから、○○ちゃんの言うことなんて気にしなければいいじゃない。友だちに言われて好きなものを食べないなんて変よ」

と言って娘の発言を聞き流す。母は、娘がどれくらい○○ちゃんの揶揄が嫌か、を自分のものさしで測り、決めつけてしまう。こういうことは結構ある。

「そんなに嫌だったなんて思いませんでした」

という台詞も、よく聞く。一方で、娘の方は、負担感が強くなってくると、母が自分の好物を喜ぶと思って入れてくれている、という想像が出来なくなり、

「お母さんは、お弁当のメニューを考えるのが面倒くさいから、唐揚げばっかり入れている。」

とか、ひどいと

「お母さんは私が唐揚げばっかり食べて、太って友だちに馬鹿にされてもいいと思ってるんだ」

とか、考え始めてしまうかもしれない。それくらい、想像する側の状況によって、想像の中身は変わってしまう。なので、相手の真実は相手にしか分からないので、決めつけないこと、を前提に。
 
厄介なのが、自分にとっての真実も、時にわからなくなることで、自分の心の中を注意深く観察することが必要である。「家族のことを思って」言っているつもりでも、実は自分の不安や自信のなさや、不満が隠れていることもある。

「勉強しなさい!」

と子どもに怒ってしまうとき、自分の今の状況や、自分の生い立ちに、怒りや焦りの根っこがないか、振り返ってみるといい。
 
そして、お互いの真実を、時々は伝え合うことが大事だ。すべてを率直に話し合う必要はないかもしれないけれど、相手を大切に思う気持ちは、伝えあって悪いことはないと思う。配偶者が家事や育児を自分に押し付けて、全然分担してくれない!という文句の中に、自分は今、仕事に家事に育児に、と追われて大変で、それを他でもないあなたに助けてほしいのだ、だって自分のパートナーはあなたしかいないから、という真実が隠れているとするならば、文句よりも真実を伝えたほうが、解決に近づく、と私は思うのだけど。どうだろうか。
 
自分の真実を注意深く観察して理解することと、互いの真実をすり合わせること。この2つは、言うは易く行うは難しなので、助けが必要なときはカウンセリングルームのドアを叩いてくれたら、いつでも喜んでお手伝いする所存である。(文責M.C.)
 

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