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こころってなんだ?

「心とはなんぞや」とは、また大きな問をぶつけてきましたね。
 
見ることも、触ることも、質量を測ることも出来ない、つまり存在を科学的に証明することが出来ない「心」というものを、在ると仮定して、測り、分析し、学問にしよう、という、心理学の始まりからして、「心」とは明確に定義が出来ないものです。(操作的定義は色々とあるでしょうが)
 
けれど、我々は「心」の存在を、難なく信じることが出来ます。それは、「心」は痛んだり、高鳴ったり、弾んだり、張り裂けたり、晴れたり、沈んだり・・・ いつも我々と共にあるからです。
 
心は、身体の一部のようであり、全く別の何かのようでもありますね。心をうまく感じたり、表現したりすることが出来ないとき、私達の身体は、お腹が痛くなったり、頭が痛くなったりして、心の不調を訴えかけてきます。そういうときは、心は実態がないから、身体を使って表現するのかな、と思いますが、トラウマ記憶は身体に記録されるため、PTSDの患者さんは身体を感じるのが苦手だという側面もあります。やはり、心と身体は不可分なものでしょう。
 
これは、私の個人的な、(しかも一時的かもしれない)考えですが、こころは、意識や、認知や、感覚などの総体のことではないかと思っています。そして、その総体には、意識や情動のように名前をつけられないなにかも含まれている気がします。
 
「心」を腑分けしていくと、意識、無意識、感情、情動、直感・・・となって、それぞれ定義も理解もしやすくなるのですが、それらを全て寄せ集めても、「心」というには少し足りない・・・こぼれ落ちる部分があるように思うのですね。ちょうど、個人と社会のような関係です。個人を全部足していっても、社会にならないような。 そしてその総体、「心」がすっぽり収まっているのが身体です。
 
心は身体であって、身体は心でもあるということを、私達は経験的に知っています。心が痛むとき、私達は胸に手を当てます。悩んだとき、頭が痛いと言います。気持ちが焦ると身体はじっとしていられなくなります。こんな例は枚挙に暇がありません。
 
では、心=身体か、と問われると「否」となるのは、やはり「心」は意識や認知や情動などの総体という観念的なものであって、物理的な実態はないからです。一方、身体には実態があります。でも、身体=入れ物、心=中身、みたいな単純なものでもないのです。心は身体を通じて、知覚しますし、身体を通じて表現しますから。
 
それで「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ、オ☓☓☓☓」と某企業広告のキャッチコピーは正しいな、とか思っちゃうわけです(笑)
 
そして、臨床の心理学者である我々にとっても、「心」と向き合うということは、クライエントさんの全部と向き合う、つまりその方の心だけでなくて、身体も、暮らしも、歴史も含めて、その人のまるごとと向き合う(全人的という言い方をします)ということです。
 
だから、個人の心の話を聞きながら、その向こうに、今の社会や、歴史を見ることが多々あります。今年も三軒茶屋の小さのお部屋でお仕事をしながら、カウンセリングとは、ミクロなお仕事でありながら、本当に深くて広い世界に繋がっているなとつくづく感じておりました。
 
今年は、三人のリレー書簡として続けてきたこのコラムですが、来年はカウンセリング室から見える、「人の心と暮らし」のお話をしたいですね。読んだ人が、自分を含めた「人」に興味を持ったり、優しくなれたり、面白がれたりするような。って、ハードル上げすぎでしょうか(汗)。
 
それでは、これまでみこと心理臨床処と多少でもご縁のあった皆様のご多幸をお祈りしつつ、3人で恙無く、忘年会でもしましょうね。二人の顔を見ながら、美味しいものでもつまむのを楽しみにしています。

             (M.C)

追伸 今年一年連載したリレー書簡コラム、『拝啓、みこと心理臨床処様』は、今回が最終回です。年明け、新しく始まる連載コラムにご期待ください。

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