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失われた遊び

 連載早々から、かなり難解な質問が来た。
 
「遊びとは何か?」
 
 しかも、自分にとっての。
 
 これを読んでいる皆さんも、ちょっとこのコラムを読む手を止めて、考えてみてください。
 
 「自分にとって、遊びとは何か?」
 
と。好きなことを聞かれたり、趣味は何かと聞かれたら、比較的答えやすいかもしれない。しかし、遊びと、言われるとねぇ…。時間潰しはしているし、ホッと一息もついている。気分転換はしている。友達と遊びにいくことはある。でも、具体的な遊び…?
 
 少し話は飛ぶが、私が乳幼児の発達相談の仕事をするようになって、もう10年以上経つ。相談業務をしていて、ふっとここ1,2年で感じるのが、「遊び」が、とても希薄になっていることだ。
 
 「お子さんは、どんな遊びが好きですか?」
 
と、聞くことが多いのだが、そこで返ってくる答えの多くが、公園で遊具で遊ぶこと、ブロックや積木、youtubeやTVを見ることだったり、ボール遊びだったり。
 
 それらの遊びは、そこそこ定型化されている。そこは特に問題ない。youtubeは最近だけれども、他の遊びは昔からある。ただ、少し掘り下げて話しを聞くと、子どもに付き添って安全を確保したり、一生けん命に遊びに付き合ったりする母や父の姿はそこに見えるが、一緒に遊んでいる姿が浮かび上がってこないのだ。
 
 コロナ禍になって三年、初めて子どもが産まれた家族の中で、子どもとどう遊んだらいいのかというのが、個々の家庭の中だけで完結してしまい、遊びの幅がとても狭くなっているような気がする。

 コロナ前は、たとえ最初は、言葉が通じない子どもとどう遊んでいいか分からない親でも、外に子どもを連れだせば、遊んでいる他の親子がいたりして、その楽しそうな様子を見ながら、そうやって遊ぶのかと、学んでいくところもあったと思う。

 もしくは、子どもたち同士が交われば、同じ場所にいて、各々違う遊びをしながらでも、楽しさを共有していたように思う。そう、親がたとえ遊べなくても、他の大人や子どもたち同士での遊びが成立していた。それが、コロナ禍で激減してしまっているようだ。
 
 そんなことを考えるに、遊びの本質というのは、色々な形はあるにしても『楽しさ』なのではないかと思う。何かを一人で創造することも、出来なかったことが出来るようになることも、達成感を得ることも、他者とコミュニケーションをとって笑い合うことも、そこに楽しいと思える気持ちがあるから、遊びになるのではないか。

 私たちは、愛想笑いではない笑顔を子どもに向けているだろうか。どんな些細な遊びでも、共に遊べているだろうか。これは、結構難しい。

 なぜなら、大人から見て小さな子どもたちの遊びは、拙く、繰り返されるものも多いため、時として退屈なものだから。しかし、その退屈さに付き合うだけではなく、こんなことをしてみたら、子どもも自分もちょっと面白いかな? という遊び(心)を、挟む余裕と心のゆとりが、私たちにあるのか無いのか。無いなら、どっかから借りてこられるのかこられないのか。これが結構、重要だ。
 
 などと思いつつ、自分にとっての遊びは?と考えると、一人でなら好きな本を読むことであり、後は友達と美味しいものでも食べながらおしゃべりをすることかと思う。

 我が家の子どもたちをだしに、遊園地などに行くのも楽しい。楽しそうにしている人と一緒に自分も楽しみ、笑っているととても楽しいと思う。自分以外の人の楽しさを知る楽しみは、何物にも代えがたい。自分自身だけでは広がりがあまりない人間なので。
 
 そういうわけで、私としては学校行事でのキャンプや仕事でのデイキャンプは行ったことがあるものの、大人になってからのキャンプや焚火はそんなに楽しんだことが無いので、ぜひ、みことのメンバーで行ってみたい。そして、真剣勝負でUNOをやって、勝ちたいね。うん。負けたら、とりあえず、もう一回やろうか。
                      (K.N)
 
 

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