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【超・短編小説】母の記憶

「一郎君はね、双子だったの。すぐにね、ひとりになっちゃったけど」
透明ビニールシートの向こう側、車いすに座る母は言った。
母は兄を溺愛してた。
兄が一人っ子でかわいそうだから、橋の下から私を拾ってきた、とよく言っていた。

母は続けた。
「女の子は嫌だなぁ、と思っていたから、女の子が産まれなくてよかったって安心したの」

そばで立って聞いていた夫と息子がクスッと笑った。
今でもたまに母のこの話を笑いの種にしている二人。
私は泣きたかった。
何がおかしくて笑えるのだろうか。
私は泣きたかった。

心が痛い。痛い。痛い。

本心なのかどうかは分からない。
今となっては確かめようもない。
私を誰だか分からなくなってしまった母に、一体何を問いただせるだろう。

兄のことは覚えている。
孫娘のことも小さな女の子だったころの記憶のままで覚えている。
親兄弟姉妹のことは実によく憶えている。
ある日、私だけが母の記憶からいなくなった。

母は萎んだ両目に涙を浮かべて「涙が出てきちゃった」と言った。
何の涙だろう?本人にも分からないようだ。
動揺した私は、母の老いて骨ばった、指の曲がった手を、自分が触れてもいいものかどうか、ためらいつつそっと握った。

泣いたのは私のほうだった。
冬、幼いころ、毎朝、石油ストーブが暖かくなるとその前で、私の長袖の洋服の袖に手を入れて、中で丸まって、まくりあがってしまった肌着を引っ張って手首まで伸ばしてくれた。
スラリとした指の美しかった、この冷たい手で。

最後の最後に、母の確かな愛を思い出すことができて良かった。




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