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《連載小説》きれいな愛じゃなくても 2

5歳の秋のある日曜日。

「そうだ、これこれ、ねえ、このチラシ見てよ」

洗い物をしていた母さんが、大きな赤い花柄のエプロンで手を拭きながら、ハガキ大のチラシを持ってリビングに来た。
父さんは興味がなさそうにテレビを見ていたが、5歳の僕は興味津々でそのチラシを覗き込んだ。

「今度の日曜日、みんなでこのバザー行ってみない?」

母さんがとびっきりの笑顔で言った。

「バザーってなに?」

優が父さんに聞いた。

「おさがりの洋服やなんかが売りに出るんだよ。おさがり、ってわかるか?優」

父さんは優にやさしく言った。優はニッコリとうなずいた。父さんもその笑顔につられるように微笑んだ。優の笑顔に僕も思わず笑顔になった。

「綿あめや、たこ焼きの出店もやるって、献」

母さんが僕にさらにエサをぶらさげた。

「綿あめ!行く行く!絶対行こうよ!ね、パパ!」

父さんが僕の髪をくしゃくしゃにしながら、諦めたように笑って頷いた。

「わーい!やったね、ママ!」

母さんは嬉しそうに微笑みながら、また洗い物に戻っていった。
このバザーをきっかけに、僕たち家族の運命は嵐に向かって大きく舵を切ることになる。

その教会はこじんまりした一軒家で、僕が想像していたような場所ではなかった。
牧師さんは40歳くらいのとても快活な人で、僕はすぐに牧師さんを好きになった。でも牧師さんの奥さんは、優しかったが、どことなく馴染みにくく苦手だった。
バザーで初めて教会に行ったとき、

「いらっしゃい」

「ジュースやお菓子もあるわよ、こっちへどうぞ」

などと出向かえてくれた5、6人の初老の男女はみなとても柔和な笑顔をしていた。
後で知ったことだが、彼らは洗礼を受けた教会のいわば正規メンバーで、執事とか長老とかいう肩書のある人たちだった。
みな一律に穏やかな声と柔和な笑顔を浮かべていて、5歳の僕にはその様子がちょっと気味悪かった。
そんな違和感と居心地の悪さはその後も続くのだが、お菓子がもらえるから、という理由だけで僕は母さんと一緒に教会に通い続けた。

日曜日ごとに教会に通うのが我が家の習慣になった。
朝10時半になると1階の質素な礼拝堂で大人たちの礼拝が始まる。
僕たち子供は、大人の礼拝が終わるまでの間、二階の一室でお菓子を食べたり、絵本を読んだりして過ごす。
そして大人の礼拝が終わると、僕たち子供も一階に呼ばれ、礼拝堂の最前列に座り、牧師さんの簡単なお話のあと、ひとりずつ順番に牧師さんが頭に手を載せ、祝福というものを与えられるのだった。
次に大人たちは礼拝堂の椅子やテーブルを片付け、どこからか引っ張り出してきた大きな丸テーブルを中心に、みんなで持ち寄ったお昼ごはんを食べるのだ。
もちろんこの時もお菓子やジュースが出る。いくら食べても叱られないという、5歳の僕には至福のときだった。

でも僕は、あるとき見てしまった。大人の礼拝の光景を。
みんなプリントを手に、そこに印刷されている文章を読み、座り、立ち上がり、読み、座りと繰り返していた。
自分たちを罪びとだと言っていた。
僕はその異様な光景が怖くなり、二階にもどろうと振り返ると、その日の子供担当のおばさんが真後ろに立っていたものだから、思わず僕は悲鳴をあげた。叱られるわけでもないのに、ひどく恐ろしかった。

「あらまあ、献くん。ささ、二階でお菓子を食べましょね」

そのおばさんは柔和に言った。
二階にもどると優はおとなしく絵本を読んでいた。
顔をあげ「オルガン、きれいね」と言った。
その時、一階ではオルガンの伴奏に合わせて讃美歌が歌われていた。

「あたしもオルガンさわってみたいなぁ」

「牧師さんに頼んでみようか」

「うん!献、大好き」

優は満面の笑みで僕に抱きついてきた。
猫っ毛の茶色い髪がくすぐったかった。甘い香りがした。シャンプーとかの香りじゃなくて優の香りだ。僕は優のこの香りが大好きだった。優の笑顔も、声も、優のすべてが大好きだった。

いつも同じように過ぎる日曜日。
僕はいつもどおりお菓子とジュースを食べあさり、優もいつもと同じくおとなしく絵本を読んでいた。
「神ともにいまあして・・・主イエスは生まれたア・・・いんえくせるしす・・・?」
近づいていくと、優が開いていたのは絵本ではなく讃美歌集だった。クリスマスの讃美歌を歌っていた。
一階からはオルガンの音が聞こえていた。
大人の礼拝が終わり一階に呼ばれ、牧師さんから祝福をもらい、最後に大人も子供もまじって立ち上がり、牧師さんが目を閉じて、両手を広げて呪文のような言葉を唱える。
薄目を開けてまわりを見てみると、みんな目を閉じて頭を垂れている。
「神様は天にいるんだから上を向けばいいのにね」
隣で優が呟いた。優は声が小さいので誰にも気づかれずに済んだ。
僕はなんとなく振り返ると、後ろの壁沿いに父さんが立っていた。目も閉じず、頭も垂れずに。

今日はクリスマス礼拝だ。
母さんも張り切って手料理を持参していた。クリスマスクッキー、パウンドケーキ、ほうれん草のキッシュなど。母さんは料理が得意だった。そして、5歳の僕から見てもとても美人な自慢の母さんだった。
すごいご馳走だ。誰もが陽気になっていた。普段は遠慮がちな優でさえ、お菓子の山に手を伸ばしていた。

「イエスさまはお食事の時間をとても大切にされていてね、罪びとや重い病を患っている人ともご一緒にお食事されたの。だからわたしたちも皆で仲良く食べるのよ」

誰だか分からないおばさんが、子供たちに向けてそう話していた。
ふ、と見ると優がいなかった。
僕はお菓子をつまみ食いしながらうろうろ探していると、優は教会の外で父さんと話していたが、しばらくして、ひとりでこっちに戻って来た。

「パパ、おなか空いてないから車で待ってるって」

父さんに一切れあげるつもりだったのだろう。両手にパウンドケーキを持った優がちょっと寂しそうに言った。僕はその一切れを引き受けた。
クリスマス祝会も終わり、片付けが始まった頃、教会員の人たちが洗い物をしているキッチンのほうから、母さんの声がした。

「私にも何かご奉仕させていただけませんか?」

「いいんですよ、奥寺さん。あとは私どもでやりますから」

この教会で一番エラい感じのおばあさんが、お菓子をいくつか袋に詰めて、母さんに渡しながら言った。
時に人は悪気なく相手を傷つける。おそらくこのおばあさんだってそうだろう。親切心から言ったのだと思う。しかし場からはじき出された母さんの心は激しくえぐられたに違いない。

「今日はおいでいただいて嬉しかったです。またいらしてくださいね。これ、献くんと優ちゃんにおみやげ」

とても柔和な笑顔だったが、自分たちの仕事、大事な神へのご奉仕を母さんと分け合おうとする人は誰もいなかった。
母さんはお菓子を持たされて追い出されたのだ。母さんが惨めでかわいそうだった。僕はわざと救いようのないガキを演じた。

「ママ~もう帰ろうよ~ねぇ~早く帰ろ~もう飽きた!つまんないよ~」

母さんは複雑な表情で僕を見ると、手を引いて、みんなにお辞儀をして教会を出た。
僕はあの時、母さんを守れたのだろうか。父さんがそうしないぶんも。

教会を出ると雪が降っていた。
僕と優には初めての雪のクリスマス・イブだ。
嬉しさで寒さなど感じなかった。優が母さんと一緒に天使のような美しい声で「まきびとひつじを」を歌っている。
父さんは最近いつもいない。帰ってこない日も多かった。でも3人でよかった。母さんも優も僕が守る。
雪を踏みしめて歩きながら讃美歌を歌う母さんと優の姿は、まるで雪と一緒に地上に舞い降りてきた天使のように美しかった。

つづく

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