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小林秀雄という高峰への登山ルート

新潮文庫で一番売れている小林秀雄の本は何かというと、『人間の建設』だそうだ。これは空前絶後の大数学者岡潔(おか・きよし)との対談なので、「小林秀雄の本」と言えるのかどうか微妙だが。

小林秀雄の文章は難解でわかりにくいと思われている。手を出すなら話し言葉を写したものの方が分かりやすい、ということなのだろう。

そういうことなら、『直観を磨くもの』も対談集で読みやすい。三木清、梅原龍三郎、折口信夫、湯川秀樹といったその道の大家と小林が語り合っている。芸術への対し方、論理というものの脆弱性、知識の罠……、小林の考えの底流をなす精髄のようなものが端々に顔を出す。

対話がまどろっこしいとおっしゃるなら、講演録がいい。小林秀雄は講演を活字化するのを嫌がったそうだが、どういうわけか、誰かの蛮勇のおかげで、活字になって読めるのが『学生との対話』である。劈頭の漢心(からごころ)と大和心(やまとごころ)の話だけでもお値段以上の叡智を授かる。

マルクス主義文学を徹底的にやっつけた小林はその一事を以て左翼陣営から攻撃され続けたが、小林が嫌いなのはマルクスでもマルクス主義でもマルクス主義文学でもなく、他人の考え(〇〇主義)に乗っかる態度だった。芸術作品にも風景にも人間にも、自分自身一人で対峙することの大切さを説いたのだ。

焼き物を見る。手に取って見る。茶を注いで使ってみる。こねくり回してみる。
「嗚呼、いいなぁ、手になじむなぁ」
この実感こそが本物の感想なのだ。これは古備前で何年前に何という陶芸家がどのような手法でどのように焼いたのか。窯はどういう窯なのか、作意は何だったのか、どのような遍歴があって今に伝わったのか。そのような話は焼き物鑑賞の邪魔しかしない。そういう知識が自ら見ることを止めさせてしまう。鑑賞ではなく、確認になってしまう。それを恐れたのだ。

分類すれば何かが分かったような気になるのが学問の陥穽だ。分類に本質を射抜く効能はない。自分の目で、知識に曇っていない生の目で、見るしかない。小林の「見る」は、尋常の「見る」ではない。その対象物が揺らぎ、歪み、変形するくらい、つまり妄想があふれ出てくるくらいまで見ないと「小林の見る」にはならない、という。

そういう見方をすれば、ゴッホの絵は動き出すのだ。

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