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【長編小説】真夏の死角57 モサドの影

「いやしかし……」

「はい、なんでしょうか」

 戸惑う田久保に対して景子はあくまでも落ち着いていた。その落ち着きは自分がこれらの事実を何の疑いもなく確信していることを意味していた。単なる妄想や信仰ではないことは明白だった。この澤田景子はこの手の話に妄想や信仰心を持つようなタイプではない。澤田景子は完全なリアリストだ。警察組織に奉職して以来、数限りなく様々な人間を見てきた田久保はそう確信していた。

 であればなおのこと、この澤田景子が語る種々の物語、そう、今のところまだ良くできた物語にすぎない……の正体を突き止めなければならない。今のところこれらの話は田久保がたまたま知らないだけで、署に帰って調査すればこの手の話はネットなどでやまのように出てくるたぐいのものである可能性も高い。

 しかしなおも、田久保の刑事としての直観は、澤田景子がそうしたくだらない俗説を誰かから吹き込まれてそれを信じ切っているようには見えなかった。もう四十路も過ぎているはずだが景子の美しさはまさに美の化身といってよいような形容のしがたいものであり、そしてその美しさにばかり目が行きそうになるが、澤田景子は類稀な聡明な知性の持ち主であることを田久保は直感していた。

 では、この確信はいったいどこからやってくるのだろう。それを突き止めることはこの話の信憑性を明確にすることに他ならず、かつ同時に澤田景子を突き動かしている背後にある一連の事件の真の姿、敵の正体を探ることに他ならない。

 田久保はやっと刑事としての思考を取り戻しつつある自分に、自分自身で安堵していた。

「しかしですね……。大和民族の祖先がユダヤ人だとすると、世が世ならこういうことは軽々には口にすることもはばかられることだと思いますが、我が国の皇室もまた、ユダヤ系の血が混じっているということになります……」

「当然そうなります」景子は冷静に一言そう言った。

「奥さんがそれを信じている、というか確信している理由はなんですか」

「例えば、天皇陛下のことを「スメラ・ミコト」と日本人は言いますが、これはイスラエルの失われた10支族の故郷の名であるサマリア(Samaria)の王国という意味だといいます」

「スメラ、サマリア、確かに似ていなくもない」

「日本民族の創設者である神武天皇は古事記で『カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト』(神倭伊波礼毘古命)と記載されています。でもこれは日本古代史の研究者がどうやっても、日本語としては解釈できないのです」

「ではどういう解釈が可能なのですか」

「音声で解釈するとはっきりします。「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」というのは、『サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者』というヘブライ語になります」

「なるほど、ヘブライ語はもちろん私は知らないのですが、ヘブライ語を本当に理解する人はどう言うんでしょうね……?」

 さっきまでの冷静さを失った田久保であれば、ここでまた言葉に詰まったかもしれない。日本人の多くがおそらく、こうした最終的にその真偽を証明できない事柄に接して、なんとなく古代史ロマンにひたりたくて盲目的にそれを信じたいと思うのも無理はないと思う。

 しかし、ことは我が国の根幹にかかわる皇室の問題である。一方でこうした説をとんでも話として忌み嫌う、もしくは、攻撃したくなる勢力がいるのも間違いないだろう。警察組織で言えば、警備部、つまり公安の人間はこうした話をまじめにする人間を一種の危険人物とさえ認識する。右翼であれば相手が有力者ならば暗殺の対象にしてもおかしくない。

 ここまで、この聡明な澤田景子がこの話を確信的にする以上、背後には籠神社の神主以上の情報源があるに違いない。それは、古代イスラエルの言葉をも普通に解釈できる人間、つまり、日本人以外の人間ではないのか、それを澤田景子の口から語らせることができれば事件の背後にいったい何が存在しているのか、新しい角度から探ることが可能だ。

「刑事さんは、この説がヘブライ語なんて読んだこともない、よくあるネットに転がっている暇な日本人の妄想だと思ってらっしゃるようですね」

 やはり話が早い。景子は田久保がうっすらと仕込んだ揶揄に反応してきた。しかし、この反応はからかわれたことに対する反発ですらなかった。景子は、そこをついてきた田久保を逆に褒めたいというような顔で、慈愛に満ちた母親が子供に対して「よくできました」という顔をする時のように微笑んだ。

「主人の仕事仲間のイスラエル人から教わりました」

「ほう、そうすると、少なくともヘブライ語も知らない日本人がネットでかき集めてきた妄想話ではない、ということですね」

「やっと刑事さんらしくなってきましたわね」

 田久保警部はいきなりカウンターパンチを食らった。通常ならこの態度には怒ってもしかるべきものであったが、景子の気品は田久保に微塵もそのような気持ちを引き起こさせなかった。

「ありがとうございます」

 田久保はありがとう、という言葉が出てきたことに自分でも内心苦笑した。自分は自分の立場、置かれた崖っぷちの状況を忘れて、この美しい女性との話を楽しんでいるのだ。そんな自覚すらもがなにやら田久保には甘美に思えたのだった。

「ちなみにそのイスラエル人の方のお名前は何というのですか」

 刑事らしくなってきたと言われた田久保は、遠慮なく警察手帳を取り出してその名前を筆記しようとした。

「アビクドール・アイデルバーク」

 田久保の右手に持ったボールペンが凍りついた。

「アビクドール・アイデルバークとおっしゃいましたか」

「ええ」

 モサド、イスラエル秘密諜報警察工作員のアビクドール・アイデルバークだ。

「本日、警察の方が来られることは、アイデルバークさんには電話で言ってあるのですよ」

「なんですって……」

「きっと、田久保さんはアイデルバークさんに興味を示すだろうと思っていましたから、あらかじめ電話しておいたのです」

「アイデルバークが私がここに来ていることをすでに知っている……」

「ええ、アイデルバークさんも興味を持っていました。田久保さんに会いたいそうですよ。実はこの公団の駐車場に停めてあるイスラエル大使館の公用車の中で私からの連絡を待っているのです」

「……モサドがすべて知っている」

「モサドって何ですか」

 景子ほどの聡明な人間が、イスラエル諜報機関のモサドという名前を知らないはずがない。では、景子自信もまたモサドの一員、あるいは日本人の重要協力者なのだろうか。

「いったん署に報告の電話を入れていいですか」

 そういって田久保が携帯電話を取り出すと、すかさず景子がそれを素早い仕草で取り上げた。普段ならまったくそんなことは考えられないのだが、まさか景子がそんな行動を取るとは思ってもいなかったので、田久保はあっさりとスマホを取り上げられてしまった。

「会いたくないのですか、アイデルバークに」

「いや、そんなことはない」

「では行きましょう。しばらく、この電話は必要ないと思いますので、電源を切ってこの部屋に保管させていただきますね」

「なぜ」

「GPSで場所を探索されると、いろいろな不都合が生じますから」

 完全に最後の手まで封じられていた。景子はすっと立ち上がって、そのまま立ち上がって部屋の隅の小さな金庫に田久保のスマホを放り込み、電子音を鳴らして施錠した。

「今から車に行くわ」

 景子は自分のスマホの短縮ダイヤルを推し、アイデルバークに一言そう告げた。

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