見出し画像

山田スイッチさん『三十年でできること』批評させていただきます

 みこちゃんサークルにて、山田スイッチさん(ドグ子さん)から、これ批評して~とリクエストを頂きました。

 その返信になります。

=====ここから=====

 時間についてだれもが経験したことがあるのが、日曜日の時間は経つのがはやいし、恋人といる時間も経つのが早いということ。

 非日常の時間は経つのが早くて、日常の時間は経つのが遅い。ハードなSFじゃなくても、いや、逆にハードなSFという装置がないからこそ、私達はこの時間の不思議というのを身近に感じるし、時の不思議さに詩的で不思議な思いを持ったりする。

 山田スイッチさんは、そういう不思議な時間を描く天才だと思う。

 私のサークルで公開されている山田スイッチさん(以後、いつもの呼び方でドグ子さんと呼ばせていただきます)の『小説 縄文人のオレが弥生人のアイツに土器土器するなんて』は、壮大なスケールの時間小説です。

 主人公の僕が縄文時代で男の意識を持ったまま、女性の体で恋愛体験をする。はちゃめちゃな世界で繰り広げられる悲喜劇はテンポよくぐいぐいと読者をとらえて離さない。


 でも、私はいつもあの小説の中に、あの小説の大きな時間的世界観の影に、ときどき小さく魅力的にさっと通り過ぎていく、非日常的な時間の不思議な感覚が好きでした。

 その時間感覚は、どこか哀しく優しかった。

 例えばこんなシーンがある。
==========================
 その日の午後、僕はルルと昨日約束した縄文土器を作っていた。「大陸の方の土器を教えて」ってルルは言ったけど、それは弥生式土器を表していて。僕は、弥生式土器が……あまり好きではない。

 あれほど魂の、原初的な力を出し切った縄文土器の後にやってきた弥生式土器は、ツルッとしていて本当にただの器で。


 絶対、ゴテゴテした縄文土器よりは使い勝手がいいのがわかっていたけど、それを僕が教えたら、このムラの土器は全部、今までのものとは変わってきてしまうのかと思うと、伝えたくないという気持ちが出てしまっていた。

==========================
『第9章 弥生式土器を教えたくない僕。』

 サークルのみんなの小説創作の勉強ってこともあって、うちのサークルでは「ここ頑張ったから読んで!」っていうコメントをつけて小説を発表することをみんなしてます。

 このときは、ドグ子さんは「感情がどこから生まれ、生まれた感情は生かすのか殺すのか。放っておくのか。」を書いてみたよ!とおっしゃってました。

 私はこんな感想を書かせてもらいました。

==========================
この内的独白がとても好きになりました。

街の八百屋が全部イオンスーパーになっちゃうとか、小汚い昔からの定食屋が吉野家になっちゃうとか、テーブルにまで脂ぎとぎとの九州とんこつらーめんのお店が一風堂になっちゃうとか…。


ドグ子さんは「感情がどこから生まれ、生まれた感情は生かすのか殺すのか。放っておくのか。」のテーマは、ルルの縄文式土器づくりのことで表現されたのだと思うけど、私は、このシーンもとても静かな情感に満ちていて好きです。


住んでいる人は、八百屋、定食屋、らーめん屋のことすぐに忘れちゃうんですよね。なんか「僕」がそういう寂しさを先取りしてそれを打ち消そうとしているのがいいな…と。

==========================

 この思いが私のドグ子ファンだからゆえの深読みでない、そう確信したのは、ドグ子さんの短編 『三十年でできること』を読ませていただいたときだった。

 比較的短いので全文引用させていただきます。

===================================
「私の方が洗濯して、料理作って、掃除して家事がんばってるんだから、あなたお皿洗いぐらいやってくれなきゃ困るじゃないのよ!」
「俺の方が、風呂掃除して、トイレ掃除して、お前がスタートボタンだけ押した洗濯物、干してるんだよ! 皿洗いぐらいおまえがやれって!」


 共働きで、ふたりともフルタイムで働いている夫婦によく陥りがちな
 禅問答に、トシキとハルミは陥っていた。
 
「アタシ、疲れてるのよ!」
「俺の方が疲れてるよ!!」
「アタシ、もう会社辞めるから!」
「俺だって会社、辞めてやるし!!」


そして2人は会社を辞めた。どちらが疲れてるかを見せつけるために、
この勝負に勝たねばならなかったからだ。


「アタシもう、出家するから!」
「俺だって出家してやる!!」
そういうわけで2人はそれぞれに出家した。ハルミは比叡山延暦寺へ。
トシキは浄土真宗のメッカ・東本願寺へ。


「世界平和とか祈ってないでやらなきゃ意味ないから!! あたし、ここを出てイラクに行くから、イラクに!!」
「なら俺とか、ロヒンギャ難民救ってみせるし! ミャンマー政府に迫害されてるあいつら、マジで助けるし!?」


30年後。


2人の終わらない意地の張り合いは難民を救い、迫害する政府の要人に考え直すきっかけを与えた。どこでこうなったのかはわからないが、毎日を戦火に追われる子どもたちを救うことしか考えずに暮らし、病に倒れながらも「あいつにだけは負けたくない」という気持ちで踏ん張ってきた2人は、
当たり前の道を選ばずに暮らした30年でいがみ合うことを忘れた。


だいぶ年を取り、「第二のマザー・テレサ」と呼ばれたハルミは30年ぶりに「ガンジーの生まれ変わり」と呼ばれたトシキに出会った。


「……アンタ、いい男になったじゃんよ」
「お前だって……俺、そろそろ皿洗ってやってもいいよ」
「……優しいじゃん」
「そっちこそ」

=======================================

 夫婦喧嘩を「禅問答」と表現するところに、すでにドグ子さんの優しい視点があるなと思いました。たったこの三文字で、どっちがいいとか悪いとかいう世界は吹き飛んじゃった。こういういきなりさり気なく断定的に世界像を構築するのが、いつものドグ子さんのやり方だと思えます。

 どっちの言い分も本当は関係ない。どっちが良いも悪いもない。夫婦喧嘩や離婚の危機の相談を友人として受けたなら、ベストな態度はこれだと思う。

 世の中の争い事、政治的争いも宗教上の争いも、どっちが正しいわけじゃない。だから、どっちの言い分も公平に聞いた上で、正しいアドバイス、正しい解決方法を提案することなんて、あまり意味がないと思う。

 でも、私達は裁判官のように公平に物事を観察して、裁判官のように自分の意見を主張することになれてしまっている。果たしてそれは、家庭内平和、世界平和に貢献する態度なんだろうか…。

 ハルミは比叡山延暦寺へ突っ走り、トシキは浄土真宗のメッカ・東本願寺へと突っ走る。おそらくハルミは普段天台宗のお経なんて読んだこともないはずだし、トシキは般若心経は知っていたかもしれないけれど、浄土真宗では般若心経を唱えないということを、東本願寺で初めて気がつくような気がする。

 そういうコミカルな世界を表現する文体なんですよね、この小説は…。

 おそらくイラクも、ミャンマーも思いついただけ。でも、この小説においてはそれはいい加減な行動でもないし、コミカルで済まされることでもない。ここがドグ子小説の不思議なところ。

 その脈絡のなさにまた、天台宗と浄土真宗のむずかしい宗教上の教義の違いが無化される。信じることはひとつのきっかけに過ぎない。生まれた家が天台宗だったら天台宗だろうし、生まれた家が浄土真宗なら浄土真宗。思いついた宗教の宗派は、逆説的にだからこそ日本人にとっては尊いものだと私には思える。

 だって、信じることは理屈じゃないから。どっちが正しいか吟味して判決を下すようにして選択するもんじゃない。結婚相手だってそうだ。ハルミもトシキも、他の男性や女性を冷静にあたう限り比較検討して、お互いのパートナーを選んだわけじゃないんだから…。

 だから人から見れば高邁な理想を追求しているかに見えた二人の行動が、「あいつにだけは負けたくない」という気持ちから、もっと言えば禅問答のような夫婦げんかから発していたとしても、そのやり遂げたことのすばらしさを、いささかでも貶めるものではない。

 「第二のマザー・テレサ」と呼ばれたハルミも、自分のことを第二のマザー・テレサだなんて思っていなかった。
トシキもまた「ガンジーの生まれ変わり」だなんて思っていなかった。

 二人とも別に、別にマザー・テレサになりたかったわけでもなければ、ガンジーになりたかったわけでもなかった。
 それでも、難民を救い、迫害する政府の要人に考え直すきっかけを与えることはできた。毎日を戦火に追われる子どもたちを救うことしか考えずに暮らす、その暮らしに嘘はなかったし、病に倒れても誰かを呪うことなんて考えもつかなかったはずだ。

 ドグ子さんは「感情がどこから生まれ、生まれた感情は生かすのか殺すのか。放っておくのか。」その機微と真実を直感的にすべて知っている。

 それは対立からは生まれない。対立から出発して、自分の主張を鍛え上げて敵を論破して、戦争で撃滅して、自分の正当性を立証して、歴史を書き換えて、全部自分に都合の良い正史にする。いつの時代も為政者はこれの繰り返し。

 いつでもその仕上げは、最初から最後まで自分は正しいことをやったんだ。正しい動機で物事を初めて、正しくない敵を打倒し、正しくあるべき歴史を確立し、以後この正しい道を誰もが守らなければならない、と宣言して自分を神格化して一生を終わる。

 この『三十年でできること』は、そのすべての、正史のでっちあげをたった777文字であっさり否定する。

 ハルミもトシキも、決して自分の正しさを、現地に持ち込まなかった。

「絶対、ゴテゴテした縄文土器よりは使い勝手がいいのがわかっていたけど、それを僕が教えたら、このムラの土器は全部、今までのものとは変わってきてしまうのかと思うと、伝えたくないという気持ちが出てしまっていた。」

 二人はこの『小説 縄文人のオレが弥生人のアイツに土器土器するなんて』の主人公と同じ気持ちを持っていたからだと思う。

 二人は、自分たちの主張、自分たちの物の考え方を広めてマザー・テレサやガンジーになったわけじゃないですよね。

 だって、あなたはマザー・テレサの思想、ガンジーの思想がなんだか今すぐ説明できますか?

 だれもできないはずです。だって、マザー・テレサは主義主張が優れていたからマザー・テレサになったわけじゃなく、ガンジーはガンジーの思想体系が優れていたからガンジーになったわけではないのだから。

 マザー・テレサとガンジーの生き方が、彼女をしてマザー・テレサたらしめたのだし、彼をしてガンジーたらしめた。

 人は、思想ではなくその生き方に敬意を表し、涙を流し、そして彼らが去っていく時に、こころから哀しくなる。

 二人は、最初に彼らの夫婦げんかは禅問答だと、自分たち自身でも知っていた。

 彼らはきっと再会の後、おしまれつつも現地を去って、日本の狭いアパートで暮らし始めるだろう。

 きっと、トシキが気持ちよく皿を洗った次の日には、料理か掃除の喧嘩をしそうだ。

 でも、もう遠くに行くことはないはずだ。

 遠くに行かなくても、お互いの瞳の中に30年かかって再会できた日の、あっけない喜びを感じることができるからだ。

 彼らの成し遂げたドラマチックな偉業にくらべて、それはあまりにもあっけない仲直りかもしれない。

 でも、二人は30年かけて、日常に潜むあっけなく去っていく大切な瞬間に、永遠の時間を感じるように、非日常的な平凡な日常を送ると思う。

 30年かけて手にしたものは、実はこれだったのではないだろうか…。

 彼の地では、きっと、現地の人が新しい自分たちの正史を平凡な日常生活の中で刻み始めているはずだ。

 日常の中に潜む時間の不思議を、ありふれた日々の中に奇跡のように実感しつつ。

===以上でございます===


 素晴らしい作品を批評できた喜びをありがとうございました。

 敬愛するお姉さま ドグ子さんへ

 みこちゃんより



■「感想文」は共感
「講評」は自分の書きたい小説の方向性のヒント
「批評」は自分の慣れ親しんだものの見方を破壊するもの




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?