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呪いを企んだ貴族の末路…私たちの生活にも呪術が紛れ込んでいる

最近何かと話題の呪術。
呪術というとアングラで社会の裏や闇を連想しがちですが、歴史を振り返ると度々表舞台に登場しています。

本日はそんな歴史書に残された呪詛事件を見てみましょう。

音声で聞きたい人はこちら!


日本の呪術

まず日本の呪術の特徴は四つにまとめられます。

・陰陽五行説
・道教
・密教
・民間信仰

陰陽五行説は物事はすべて陰と陽の二つに分けられ、これらは常にバランスを取りながら存在するという『陰陽思想』と、木・火・土・金・水が互いに関係しあい万物をつかさどる『五行』の考えが融合して出来上がった思想です。
この思想は日本では陰陽道へ発展します。

道教も古代中国で発生した思想です。
これは宇宙の中心である“道(タオ)”が真理であり、これを極めることで不老長寿を得られるとしたものです。

密教はインドで発生し中国経由で日本に伝えられました。
こちらは仏教の考え方の一つで、悟りを開くための重要な行為として神秘的な儀式や呪文(真言)が用いられます。

さらに日本古来の民間信仰や神道に加え神仏習合の結果、日本で独自に発展した山岳宗教や修験道なども様々な呪術的行為を行うものとなりました。

これら外来の思想と独自の思想が複雑に融合したのが、日本の呪術の特徴です。

「のろう」と「まじなう」

「呪」の漢字は訓読みで「のろう」とも「まじなう」とも読めます。

日本国語大辞典によると「のろう」とは「恨んだり憎んだりする人に、わざわいがあるようにと神仏に祈る」という意味です。
一方「まじなう」とは「神仏や神秘的なものの威力を借りて、災いや病気を除いたり、災いを起こしたりするようにする」という意味です。
どちらの意味でも「災いを願う」側面がありますが、例えば政敵などを打ち倒す際には「のろう」、病などの災いから逃れるために「まじなう」が使用されます。

しかし「のろい」も「まじない」も資料が多くはなく、良く分からない点が多いものです。
そもそも「のろい」は密かにこっそりと行われていたため公にするものではありませんでした。
「まじない」は儀式で使用した道具が遺跡から出土しても、当時の人々がどのように使用していたのかが分からず、「恐らくまじないに使用されたのだろう」と処理されることがしばしばあります。

呪詛事件ファイル

ではお待たせしました。
かつて日本ではどのような呪いが行われていたのか、歴史に登場した呪詛事件を見ていきましょう。

・天平勝宝(てんぽうしょうほう)の厭魅(えんみ)事件
厭魅とは呪いによって起こされた殺人のことです。

754年11月、薬師寺の僧侶の行信(ぎょうしん)と宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神主だった大神朝臣多麻呂(おおみわのあそんたまろ)による厭魅事件が発生。
被害者は不明ですが多麻呂の同族と考えられる大神朝臣杜女(おおみわのあそんもりめ)という女性も容疑者とされ、行信は下野(しもつけ)の薬師寺へ、多麻呂と杜女の大神朝臣姓(おおみわのあそん)は大神(おおみわ)に変更の上、それぞれ日向国(ひゅうがのくに/宮崎県)と種子島へ流されました。

この時代は橘諸兄(たちばなのもろえ)と藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が権力争いをしている真っ最中であり、もしかしたらこの争いに関連する事件だったのかもしれません。

・和気王(わけおう)による呪詛事件
765年、天武天皇の孫にあたる和気王が称徳(しょうとく)天皇の後継を狙い謀反を起こしました。
共謀者は鬼神に祈祷する力を持つ(巫鬼/ふくい)朝臣益女(あそんますめ)と言われています。
謀反が発覚した和気王と益女は逃走するも、双方捕えらえ処刑されました。

・不破内親王事件
769年、聖武天皇の皇女である不破内親王が女官の県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)と忍坂(おしさか)女王、石田女王らと共謀し、人を呪う「巫蠱(ふこ)」の罪で都から追放されました。
動機は称徳天皇を亡き者にし、不破内親王の息子である志計志麻呂(しけしまろ)を皇位につけようとしたためと考えられます。
巫蠱の方法は佐保川(さほがわ)に転がっているドクロを拾い、その中に称徳天皇の髪の毛を入れて宮中に持ち込み三度も呪いをかけたというものです。

この事件は神仏の加護により露見したとされていましたが、のちに丹比乙女(たじひのおとめ)という女性の嘘(誣告/ぶこく/わざと事実をまげていうこと)だと判明。
容疑者らは再び都に呼び戻され復権しました。

しかしこの事件が本当に冤罪だったのか、実際に呪詛が行われていたのかは謎のままです…。

・井上内親王呪詛事件
772年、光仁(こうにん)天皇の皇后である井上内親王が「巫蠱」の罪で皇后の位を剥奪されました。
次いで井上内親王と光仁天皇の息子である皇太子の他戸(おさべ)親王も廃太子となり、代わりに皇太子となったのが後に桓武天皇となる山部(やまべ)親王です。

この事件は女官である裳喰咋足嶋(もくいのたるしま)が、「皇后に呪詛を行うよう指示された」と自首したことにより発覚しました。
この自首が褒められて裳喰咋足嶋は昇進しています。

この事件の動機としては山部親王が他戸親王を蹴落とすため皇后に冤罪を被せた説や、井上内親王が血統や境遇的に光仁天皇を見下しており、より天皇に相応しい他戸親王を天皇にしようと夫を呪詛した説があります。

のちに773年、光仁天皇のいとこである難波(なにわ)内親王が亡くなりました。
するとこの件も井上内親王の呪詛だろうと嫌疑をかけられます。
その結果、井上内親王と他戸親王は幽閉されました。
二人は二年後に幽閉先で同時に亡くなったことで暗殺を疑われています。

そして井上内親王は怨霊となって祟りを起こしたとされています。
特に井上内親王の怨霊は何をしても収まらなかったので、後の世に霊安寺(りょうあんじ)や御霊神社が建立されました。
まあこれは化けて出ても仕方がない境遇ですね。

・桓武天皇呪詛事件
782年、三方(みかた)王、山上朝臣船主(やまのうえのあそんふなぬし)、弓削(ゆげ)女王の3名が桓武天皇呪詛の容疑で都から追放されました。

山上朝臣船主は陰陽寮の長官かつ天文の知識があるため、陰陽道による呪詛の実行犯であると思われます。

都から広まる呪術

このように人が人に呪いをかける事件は都で度々発生しましたが、都から地方へ赴いた役人が「のろい」も「まじない」も広めたため全国的に呪術が広まりました。

例えば、呪いの文言に記号を記した木簡や顔を書いた壺はあちこちから出土しています。
現代の「流し雛」の原形とされる人間の形をした木製品(人形/ひとがた)は、人についた穢れを移し流すことで「祓え」の効果をもたらしたと考えられます。

平城京で見つかった「釘が打ち込まれたような人形」に似たようなものが新潟市からも見つかっていますし、疫病除けである「蘇民将来(そみんしょうらい)」の札も全国的に見られます。

現代に残る呪術

かつて神社へ奉納した馬の代わりに絵馬が生まれ広まり、時代が進むと画が馬から願い事や神社の由来などに変化。
やがて絵馬は裏面に願い事を書く「おふだ」になりました。
稲荷神社では狐の画がかかれた絵馬や、天満宮では天神様と梅の花が描かれた絵馬など様々なバリエーションがあります。

また古代中国発祥の、短冊というお札に豊穣や芸の上達の願いを込めて、邪気を払うとされた笹に結ぶことで願いの成就と邪気払いを期待した呪術が、現代の七夕祭りに繋がったのだろうと考えられます。

現在ではインターネットでお札を購入できるなど、願いをかけて厄を退ける呪術は社会の身近なところに残されています。

▼参考書籍(敬称略)
まじないの文化史: 日本の呪術を読み解く(新潟県立歴史博物館)
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