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ハイコンテクスト/ローコンテクスト

第97回箱根駅伝で駒澤が優勝したことによる「男だろ!」という言葉を巡る論争や、厚底シューズに対する評価の一人歩きが兼ねてより気になっていました。

そこで両者に関する報道や人々の反応について、ハイコンテクスト/ローコンテクストという切り口から見ていきます。


ハイコンテクストな日本文化、ローコンテクストな私

ご存知の通り、日本はハイコンテクスト文化です。
婉曲表現は上品さゆえのものと見做され、先回りして行動することが美徳とされます。

かたや私は、ローコンテクストに育てられた人間です。一番上の姉が所謂「察してちゃん」だったことを親がマズイと判断したのか、あるいは一時期家族でローコンテクスト文化の国であるイギリスに住んでいたからか。言葉を正確に使うこと、言葉を正確に受け止めることを、子どものうちから徹底して叩き込まれました。


極端な例ですが、「鼻血が出た!」と言った時。

そそくさと駆け寄ってティッシュを渡すのがハイコンテクスト文化。
ふ〜ん、鼻血が出たのね。と構えておき「ティッシュを取って!」と頼まれて初めて腰を上げるのがローコンテクスト文化。

私は後者で育てられました。
鼻血が出たのはわかった、でもどうしてほしいかは言わなきゃわからないよね、と。
ティッシュを用意してほしいのか、鼻血が出たときのとるべき方法を教えてほしいのか、ちゃんと言いなさい、と。

行間を読まない・読ませないようにすることを是として育てられたからこそ、後述の通り「大衆向けメディアはローコンテクストであれ」と主張したくなってしまうのです。この先も読み進めてくださる方は、私にメディア批判の意図はそれほど無い、という点だけ念頭に置いていただきますよう、お願い申し上げます。


ハイコンテクスト文化からローコンテクスト文化へ

ハイコンテクスト文化は「我々はみな同じ人間である」という前提のもとに成り立ちます。ローコンテクスト文化はその逆。「みんな違う人間なのだから、言葉にしないとその人の考えは何もわからない」というのが根底にあります。

日本は元来、閉鎖的なコミュニティを形成していました。歴史の知識が義務教育レベルしかない私ですが、ムラ社会がほんの100年ほど前まで当たり前だったことは理解しています。地域によってはいまも小さなムラが存在していますね。社会の単位が小さく外との交流が少ない状況では「我々はみな同じ人間である」という前提が生まれるのも自然な流れです。

ところが近年の社会構造の変化や急速なIT技術の発展により、状況は一変しました。ここでは下記の2点を例として挙げておきます。

・ひとつのムラで一生を終える時代は終わり、これまでの歴史からすれば到底関わることのなかったであろう人との接点が指数関数的な速度で増えた。

・人々の内面にとどめられていた思想や価値観が、SNSの普及により可視化されるようになった。

生まれた場所の物理的距離が意味をなさないものとなってきたことにより「世の中には自分とは違う人間がたくさんいる」ということを、自分とは違う考えの人が発する言葉を日常的に目にすることにより「人の考えは、実際に聞いてみないとわからない」ということを、日本にいる人々は少しずつ教訓として得ているのです。明確に自覚していないにしても、無意識下では感じているはず。

つまり現代は「みんな違う人間なのだから、言葉にしないとその人の考えは何もわからない」という文化が浸透しつつある、その過渡期にあると言って良いでしょう。

その中で、私から見て過渡期対応がうまくいっていないと感じたのが序盤で触れた二つの件です。以下、詳細を述べていきます。


例①:「男だろ!」

駒澤大学の大八木監督の決め台詞として有名なこのセリフ。第97回箱根駅伝で駒澤が優勝し大八木名物「男だろ!」やこの檄を励みにして走る選手たちの様子が多くのメディアに取り上げられました。これに伴い「男だろ!」という言葉をジェンダー論と絡めた記事やツイートが散見され、物議を醸しました。

まず、批判していた人は「男だろ!」という至ってシンプルな言葉を「生物学的に男という性別に生まれたからには、ここで結果を出さないといけないだろ!」と脳内で解釈していましたね。そしてそれを体育会系の嫌な文化だと結論づけていました。嫌な気分になったのは事実でしょうし尊重しますが、この場合に批判すべき対象は選手や監督ではなく、そこそこの人数が目にするにも関わらず配慮に欠けた報道をしたメディアだったのではないでしょうか。自分が生き方や価値観を否定された気分になったのなら、同じことを選手や監督に対してするのはナンセンスですからね。また、存在しない敵を勝手に作り上げて批判するというのは理不尽が過ぎますし、何よりもご自身の精神衛生上良くないのでやめた方が賢明です。正直なところ、こういった行為は悪い意味でのハイコンテクストの極みだと、私は感じました。

実際、大八木さんが意味する「男だろ!」はそのような文脈ではありません。「お前は俺が育てて、信頼を置いてこの区間に配置した男だ!もっとできるだろ!信じてるぞ!」のようなニュアンスです。それでいて、各種メディアではこのような背景について触れるものはなかなか見ませんでした。もはや「男だろ!」は学生長距離界における内輪ネタとなってしまっているのです。団扇も作られているくらいですから。説明不要、あるいは説明するのは野暮だとする判断が各メディア内にあったのかもしれません。

しかしながら、箱根駅伝で優勝し学生長距離界のネタをわかっていない多くの人々の目に触れる場において、文脈説明なしに「『男だろ!』という檄は不思議な力をもらえる」という部分のみにフォーカスし美徳として報道したのは明らかな配慮不足だったと言えます。

誰に対する配慮不足かというと、ジェンダー論に強い関心を持つ人々ではありません。体育会系文化を好まない人々でもありません。学生長距離界に特段の関心を持たないすべての人に対する配慮不足です。

内輪ネタを、普段そのコミュニティに関心を持たない人向けに発信する際は、「なぜそれが素晴らしいのか」まで説明すべきでしょう。そもそも一人一人はみな違う人間なのだから、誰かにとって素晴らしいものが、他の人にとっても素晴らしいものであるとは限りません。

私は大八木さんの愛ある檄が大好きですし、大八木さんに「男だろ!」と言われることを夢見て駒澤大学を志望する選手たちのことも大好きです。だからこそ、「男だろ!」という言葉の作用を説明するよりもまず、この言葉に込められた意味や愛情そして師弟間の信頼関係について触れてほしかった。そうすれば、普段は学生長距離界に見向きもしない人でも「前時代的な風潮」「体育会系のよくある怒号」などのマイナスイメージは持たずに「今回優勝したのは個性的かつ愛情あふれる監督が率いるチームなんだな、ふ〜ん」で済んだでしょうから。先述の、勝手に脳内で敵を作り出す行為も、きちんとした説明を受けていれば発生しないはずです。

大衆向けメディアは、ローコンテクストであるべき媒体なのです。


例②:「シューズのおかげ」

ここ数年、長距離を語るにおいて厚底シューズは避けては通れない道となっています。トラック競技において厚底シューズの使用に制限がかかったことも話題になりました。

一方でこんな問題も浮上しています。

これは選手もファンも悲しくなる話ですね。選手も述べている通り「シューズが良いからなの?」と尋ねている本人には悪気は無いのでしょう。考えるべきは、なぜ好記録をシューズのおかげだと捉える人が出てきたのか、という点です。

それは好記録が続出した後、厚底シューズの影響について各種メディアが触れているからでしょう。人々が関心を持つものについて取り上げるのは理に適っていますし、このこと自体は何も問題はありません。

では一体何が選手やファンにストレスを与える真の原因となっているのか。それは、シューズそのものの性能やNIKEの優れたプロモーション戦略に着目するわりに、シューズの設計・開発者の努力や厚底への見事な適応を見せた選手の取り組みについてなかなか触れようとしないメディアの姿勢なのではないでしょうか。

メーカー勤務の方や理系学部出身者であれば「モノの発展の裏には、たくさんの人の泥臭い努力が隠されている」ということはわかるでしょう。
自身がランナーであれば、シューズの履き替えによるフォーム矯正の大変さがわかるでしょう。

でも、そうでない人からしたら?そこまで考えが及ばないかもしれません。

今は数十年前とは違って、高度に機械化・IT化されているため国内で手工業に携わる人口は減っています。
情報に溢れる社会である今は自ら試行錯誤せずとも先人の知恵を使い、独学でのスポーツが一昔前の完全に閉ざされた独学とはまた違ったものとなりつつあります。

シューズの性能に言及する前にシューズが発展した経緯についてもまた触れるのがメディアの役割ではないのか、シューズの持つポテンシャルを最大限に活かして結果を残す選手をもっと称えても良いのではないか。これが私の主張です。


最後に

今回「大衆向けメディアはローコンテクストであれ」という論調で述べてきました。ターゲットによっては内輪ネタの方が受けが良いのもわかりますし今までは暗黙知がある前提でよかったかもしれないけど、現代においては説明しすぎるくらいがちょうど良いよね、と。

ここで念のためですが補足をさせていただきます。
ハイコンテクストとローコンテクスト、どちらも素晴らしい文化だと私は考えています。

気遣いの行き渡った接客を受けると感動しますし、こちらの欲しい言葉をなぜか発してくれる友人の存在はかけがえのないものです。(ハイコンテクスト)

勘違いの無いようにと丁寧なコミュニケーションを取ってもらえると安心します。悩み事を相談した際に、一般論に私を当てはめることなく、目の前の私と真剣に向き合ってくれる人のことは信頼できます。(ローコンテクスト)

ちなみにサムネイルにもしているこちらの本を読むと、多様な文化への知識と理解が深まるのでオススメです。


私の好きなものについて、各種メディアから広く正確に素晴らしさを伝えてもらえる日が、すぐにやってきますように。

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