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【短編小説】ゆりかご

※第21回女による女のためのR-18文学賞 
一次予選通過作品 
原稿用紙30枚程度の短編です。

 眼下には闇の海が広がっていた。
 海の底は見えず、漆黒がどこまで世界を浸しているのか、想像するのも億劫になるほどだった。辺りには物音ひとつない。唯一存在を主張しているのは、頬に触れる夜風だけだった。目には見えずともその冷たさだけが、ここを辛うじて現実らしく象っていた。
 思考は、もうずっと前から放棄していた。この一ヶ月の間に、それは何の意味も持たないものに成り果てていた。考えて、予測して、それで対処できるのは道理も分別もある相手だけだ。話も通じない、意図も容易に汲み取れない相手の対応は一様ではなく、あらゆることを手探りで試していくしかない。
 それがどれほど骨の折れる作業であるかを、思い知らされた一ヶ月だった。自分が望み、望んだ通りに得られた結果で、こんなに打ちのめされることがあるなど、思いもしなかった。
 蓄積された疲労は、確実に私から私自身を奪いつつあった。だから爪先立ちになり、両の腕を長く伸ばしてベランダから身を乗り出したのは、私の意志や思惑など何ら干渉するところのない——喩えるなら、悪魔に唆されたような出来事だったと言えなくもなかった。私はどこも見ていなかった。眸の中の闇さえも、それと認識せずに映しているだけに過ぎなかった。
 やがて、何かを取り落としたような重く鈍い音が静寂しじまに響いた。
 それが、その夜のすべてだった。

 ***

 夢を見た。
 夢の中で、私はまだ会社勤めをしていた。
 デスクの上に堆く積まれた書類を次々チェックし、OKなら社印を押して右の赤いトレーへ。不備があればその箇所にチェックを入れて左の青いトレーへ。時々、脇に置いたコーヒーを飲みつつ、ひたすら進めていく。
 別段、楽しい夢でも何でもない。けれど、夢の中の私は『やるべきこと』を形で示され、それを順に遂行し、整理していくことに快感にも似た充実を覚えているのは確かだった。やればやるほど頭の中が鮮明になり、作業効率が上がっていく。今、自分が何をしていて、それがどんな風に他のひとたちの仕事に繋がっていくのか、明瞭に見通せる。
 だから目を覚まして、そこが深夜のリビングのソファであり、腕の中にずっしりとした重みがあることに気づいた時、私は思わず長い嘆息を漏らしていた。もちろん、何も知らない息子は、その青みがかった澄んだ目をぱっちりと見開いて虚空に向けている。
 蒼人あおとは扱いやすい子だ、と誰もが言う。実際、そうなのかも知れない。生まれてまもなく、三千グラムにも満たない小さな身体を抱いた時は、そのあまりの儚さに不安を覚えたが、ここまでの約一ヶ月、大きな問題もなく順調に育っている。母乳でも粉ミルクでもよく飲み、今や体重は生まれた時の倍以上になっている。ここ数日は、抱いているとすぐに両腕が痺れてくるほどだ。
 体重だけではない。新生児は細切れにしか寝ないと言うのに、蒼人は昼の間よく寝てくれる。その隙に、私は家事を済ませることができる。
 実家が遠く、長く不在にして夫に不便をかけることに気が引けた私は、家に近い産院で息子を出産した。最初の二週間こそ、実家から母が手伝いに来てくれたが、あちらはあちらで弟家族と同居しており、そちらにも数ヶ月違いでふたり目の子どもが生まれることになっていた。上の子は幼稚園に通っていて、母は身重の上、働きに出ている義妹いもうとの代わりにその子の送り迎えをしなければならず、そう無理は頼めなかった。
「この子は大人しくて静かな子だから、あなたひとりでも大丈夫でしょう」
 実家へ帰る間際、母は玄関先でそう笑った。
「あなたももう母親なんだし、しっかりしてね。何かあれば征人まさとさんを頼って、よく相談するのよ。あなたは幸せものよ。あんないい旦那さんがいるんだから。それに比べて陽太ようたはいつまでも子どもだから、里佳りかちゃんには申し訳ないわ」
 三十過ぎてもいまだ父親になりきれない弟と、それに振り回される義妹をつぶさに見ている母からすれば、夫は『信じられないほど家庭的な男性』らしい。
 その意見を否定はしない。先年、役職についてからは激務を極め、朝は五時半に家を出て、帰りは夜の九時を過ぎるとはいえ、夫は家事にも子育てにも協力的だ。蒼人の沐浴も毎日手伝ってくれるし、夕食は作ってさえおけば自分で用意し、片付けまでしてくれる。毎晩の風呂掃除だって、ゴミ捨てだって、厭な顔ひとつ見せたことはない。それどころか、『いつも帰りが遅くてごめんね』などと私を気遣う台詞まで忘れない。母だけではない。夫の話になれば、友人たちにだって必ず、『良い旦那さんで羨ましい』と口を揃える。
 蒼人が急に顔をしかめてむずがりだしたので、私は慌てて座っていたソファから立った。そのまま、腕の中の子をゆっくり揺らす。自分を取り巻く景色が変わったことに気を取られたのか、蒼人はあーと小さな声を出して、またぼんやり天井を見つめ始めた。
 床に置いたナイトライトの明るさしかない部屋で、壁時計は深夜一時を指している。私はもう一度大きく息を吐いた。
 ここのところ、ずっとそうだった。昼間寝る分、蒼人は夜は全く寝ない。決まって夜十時過ぎに目を覚ますと、合間に三十分ほどの睡眠を取ることはあっても、朝まで長く寝ることはない。
 そしてその間、彼は自分の背が何かに触れることを絶対に許さない。リビングには、この子がお腹にいるとわかった時に、何を思ったのか夫がインポート専門のインテリアショップで買ってきた、今時珍しい籐のゆりかご——脚の部分を上下逆さにするだけで、ゆりかごと固定脚の二種類になるものだ——が置いてある。だが、そこで寝付いてくれるのは太陽の陽が差している間だけだ。夜はどんなに安らかに眠っているように見えても、そこに背中が触れた途端、火がついたように泣きじゃくる。手洗いやほんの少し用を足そうにも、一切容赦はしてくれない。
 昼間、蒼人の眠った隙に料理を作り置いたり、掃除をしたり、洗濯物を片付けたりしていると、私自身が横になれる時間はほとんどない。母がいる時はそれら家事を少し任せ、眠ることができたので、夜の蒼人の世話も何とかできたが、母がいなくなった今は、まとまった眠りにつけることなど皆無だった。さっきのように息子を抱いたまま、意識が途切れるような眠りがあり、十分十五分で目が覚める。その繰り返しだ。
 皆の言う『良い夫』は、明日の朝も四時半には起きて出勤しなくてはならない。当然、息子が生まれてからは、別の部屋でひとり眠っている。仕方のないことだ。中間管理職になりたての彼には、あらゆる雑務が回って来て、疲弊しているのが見ているこっちにも伝わってくる。休日くらい代わってもらえばいいのかも知れないが、彼の疲れた横顔を見ていると、そんなことはとても言い出せなかった。
 蒼人は変わらず宙を見ている。私はその潤んだ青い眸に何か読み取ろうと試みたが、そこには底の知れない空洞があるばかりだった。
 息子の様子が落ち着いているのを確認して、私はまたそっとソファに腰掛けた。しかし途端に息子が泣き出したので、私は再び席を立たなくてはならなかった。
 ゆっくり身体を揺らしてやって、小さな声で子守唄を歌ってみる。すると、今の涙は芝居か何かだったかのようにけろりと止んで、また息子は暗い天井を見るともなしに眺め始めた。
 今夜はずっとこのまま、この子を抱えて立っていなくてはいけないのだろうか。
 不意にそんな思いが頭をもたげて、気が遠くなりそうになる。
 恵まれた環境。幸せな家庭。可愛い子ども。
 そんな言葉がぐるぐると渦になって私に巻きつき、柔らかく、けれど確実に首が絞められていくような感覚に捕らわれた。

 ***

 いわゆる就職氷河期に大学を卒業し、就職活動に失敗した私は、三年ほど気ままなアルバイト生活をしたのち、都内の小さな出版社に事務職で雇われた。
 どうしてもやりたい仕事、というわけではなかったし、何が何でもずっと続けたいと思っていたわけでもない。ただ、当時の状況として、たとえどんなに小規模な会社であれ、第二新卒で何の事務経験もない私をいきなり正社員で採用してくれたのはありがたいことだった。
 採用担当であった人事部の部長が、眼鏡をかけた柔和な笑顔で始終対応してくれたこともあり、その気持ちに応えたい一心で仕事に励んだ。結果、私は十二年もの間、一度インフルエンザにかかった以外は病欠すらせず、真面目に職務をこなした。これからも、ずっとそうしていくつもりだった。
 夫と結婚した時も、それから程なく妊娠がわかった時も、その思いは変わらなかった。仕事を辞める、という選択肢は全く想定外だった。会社もそのつもりで、産休の手配をあれこれしてくれていたし、同僚たちは三十代後半にして初産に望む私を、精一杯気遣ってくれた。夫のこともだが、私はいつも周囲の環境には恵まれているのだ。
 事態が一転したのは半年前。まもなく安定期を迎えようとするその寸前のことだった。
 その日は朝から下腹部に鈍い痛みがあった。とはいえ、耐えられないようなものではまるで無かった。時折ずきりと身体の内側からつつかれるような感じ。
 私は大したことだとは思わず、ごく普通に出勤し、仕事をした。ちょうど大事な雑誌の入稿日が差し迫っていて、やるべき仕事は山積していた。
 仕事をしている間は痛みのことなど忘れていた。もしかしたら気のせいだったのかも知れないな、とすら思った。電車が混雑しないうちに、と言う上司の配慮によって、まだ皆パソコンに向かっているのを後ろめたく思いながらも、定時きっかりに仕事を上がると、私は急いで会社を出た。
 違和感を感じたのは、地下鉄の階段を降り切ったあたりでのことだった。
 内腿に、何かが流れる気配がした。
 それはやけにはっきりとした感触で、誘われたように朝の痛みも戻ってきた。冷や汗が出た。ただならないことが自分の身に起こっている予感がした。
 駅の構内で産科に電話し、家には帰らず直接病院へ寄った。いつも担当してくれている若い女性の先生はおらず、ほとんど顔を合わせたこともなかった院長先生が診察を引き受けてくれた。眼鏡をかけた院長先生は、エコーや内診の結果を注意深くパソコンで確認しつつ、太い眉の間に皺を寄せて告げた。
「だいぶ赤ちゃんが下までおりてきていますね。このままだとかなり危ないですよ。出血はこれが初めてですか?」
 下までおりている。危ない。その言葉だけで、背筋が凍った。院長先生はまともに質問に答えることもできない私に、淡々と言葉を重ねた。
「今日このまま入院していただいた上、治療されることを強くお勧めします。お仕事等、いろいろあるでしょうが、お腹の赤ちゃんの安全を考えるなら、入院しないと妊娠の継続は難しいですよ」
 冷徹な声音でそう告げられて、入院しないなどといえるわけはなかった。むしろ、入院することしか考えられなかった。
 切迫流産。そう診断名がついた。
 入院することになったと夫に連絡すると、彼は仕事を放り出してすぐ病院に駆けつけてくれた。
「とにかく、今はゆっくり休んでね」
 生まれて初めての入院、それどころか生まれて初めて点滴を腕に刺され、ベッドに横になった私に、夫はいつもの低く優しい声で言った。
「明日、会社には僕から電話しとくから」
 家のことも気にしないで。君はちょっと頑張りすぎるからね、何でも。赤ちゃんがくれた休暇だと思って、この際のんびりすればいいんだよ。
 そんなことを話した後で、夫は私の入院のための荷物をまとめてくるから、と一度家に帰った。
 夫が帰った後、私は横たわったまま、点滴がボトルから落ちていく様を凝視していた。輸液はゆっくり、けれど一定のリズムを保って機械的に管へと流れていく。その勤勉さを目にしているうちに、ふと涙が込み上げてくるのがわかった。
 私は何にもできていない。
 夫にも、会社にも恵まれている。運が良いことに子どもにまで恵まれた。なのに、私ばかりがいつも皆の厚意を裏切っている。
 明日から会社に行かなければ。当然、上司や同僚たちに迷惑をかけるだろう。今が繁忙期なだけに余計だ。夫はただでさえ仕事が忙しいのに、家のことまでしなくてはいけない。そしてそうまでしても、折角お腹に宿ってくれた小さな我が子の命さえ覚束ない。
 涙はとめどなく溢れた。そのことが一層私の心を打ちのめした。何もできていない上に泣くなんて。そういう弱さは私の最も厭うところであり、仮にも母親になろうとする自分がそんな弱気であることは、恥ずかしさを通り越して呪わしいとすら感じた。

 ***

 気づくとベランダに出ていた。
 まだ夜明けまで先の長い外の世界は、何もかもが闇に溶けて深閑としていた。風が冷たい。家の中だからと半袖のパジャマを着ていたが、そんな格好でいるには空気は棘を持ちすぎていた。この一ヶ月、家を出ていないので忘れていたが、もう十月も半ばなのだ。私が蒼人にかかりきりになって日々を過ごしているうちに、季節はひとつ変わってしまったのだと今更ながら思った。
 だからと言って、部屋に戻って羽織りものでも取ってこようとも思わなかった。むしろ今はこの冷たさが心地良かった。第一、私が部屋に入った気配で、やっと授乳の後に寝付いて、ゆりかごに下ろすことができた蒼人が目を覚ましたりしたら大変だ。
 私はベランダの縁に寄り、その下を眺めた。マンションの十二階という高さなら当たり前なのだろうが、地上はあまりに遠い。覗き込んだ先の辺りには、街灯がいくつかあるはずだが、光が極端に薄いのか、それとも今日は灯っていないのか、闇ばかりが濃くて、それが私の中に燻るどす黒い感情を掻き立てた。

 さっきまで、また夢を見ていた。
 カフェの夢だった。会社の斜向かいにあった、大手チェーンのコーヒーショップ。特別好きというわけではなかったけれど、オフィスに近くてとにかく便利なので、ランチによく行った。サンドウィッチとコーヒーを買うだけでゆうに千円を超える出費は、安いとは言い難かったけれど、あの頃はそれを必要経費だと思っていた。そしてそんな風に使ったところで、それは自分で働いた自分のお金であって、誰に遠慮することもなかった。
 天気の良い日、あの店の窓際の席でゆっくりコーヒーを飲みながら、いつも鞄に持ち歩いている文庫本を読むのは、凝り固まった頭をほぐすのにちょうど良い時間だった。透き通った青空を背景に、テラスの脇に立つ大木が風で木の葉を揺らしているのを見ていると、いつの間にか、午前中の仕事で焦ったり、苛々したり、鬱々としたことが中和され、浄化された。また午後からも頑張ろう。そう自分を鼓舞することができた。
 今はもう、あんな時間を持つことさえ私には許されていない。時間どころか、この先まだ授乳が終わるまでの一年近くは、ひと息吐くためのコーヒーすら飲めない。
 結局、切迫流産による入院は一ヶ月以上続き、私はそれを機に退職した。
 わかっていたことだ。子どもを産めば、何ヶ月もまともに夜は眠れない。子どもに母乳を与えるうちは、カフェインは控えなくてはならない。カフェインだけじゃない。スパイスも、アルコールも、脂肪分の多いものも、油分の多いものも……その他だって数え上げればキリがないくらい制約はある。
 それでも子どもを産みたいと望んだのは私で、今もう息子がこの世に存在する以上、それを放り出して逃げ出すことはできない。ましてやたった一ヶ月で根を上げるなんて、人が聞いたら呆れるに違いない。
 短い夢から私を起こしたのは、腕の中の蒼人の鳴き声だった。時計を見ると、午前二時を過ぎていた。その前にミルクを飲んだのは十一時前だった。ちょうど三時間になる。お腹が空いたに違いなかった。
 私は先におむつを替えようと、息子をゆりかごに置いた。するとなお一層、蒼人は大声で泣き始めた。
「大丈夫だよ。ママ、ご飯ってわかってるよ。その前におむつ綺麗にしようね」
 宥めるように息子に言い聞かせたが、意味が通じるわけもなく、蒼人はひたすら泣き叫び続ける。私は急いでおむつとお尻ふきを用意すると、暴れる足を抑えてカバーオールのボタンを外した。
 新しいおむつに交換すると、さすがに少し変化を感じたのか、泣き声は一旦止まった。その隙にとベッドから離れ、粉ミルクの準備をする。
 蒼人は母乳だけでは足りず、必ず母乳の後には粉ミルクを飲まなくてはならない。成長度合いからすると母乳だけでも大丈夫なはずだと、先日家にやって来た区の保健師からはアドバイスされたが、いくら長い時間母乳をやっても絶対に満足せず、ミルクをせがむ。しかも母乳とミルクの間が空くと、お預けを喰ったものと思い込んで、気が狂ったように泣き叫ぶ。そこで、母乳をやる前に粉ミルクを用意してくのが常になっていた。
 だが、すぐに自分の計算違いに気づいた。キッチンのシンクにはまだ洗ってない哺乳瓶が二本、そのままにされており、予備の一本は消毒液にかけられないまま水切り籠にある。電気ポッドのお湯もあと一回分あるかないかギリギリだ。
 とりあえず急いで大小ふたつの鍋にお湯を沸かした。大きな鍋で哺乳瓶を煮沸し、小さな鍋のお湯で粉ミルクを溶かせばいい。確か冷蔵庫にはまだ封を開けていないミネラルウォーターが何本かあった。あれは軟水だから、湯冷ましの代わりにしてミルクにも使えるはずだ。
 なるべく急いで進めているつもりだったが、蒼人はまたぐずり始めた。当たり前だ。元々お腹が空いて泣いていたのだ。一瞬おむつを替えて気分が変わったからといって、お腹がいっぱいになるわけではない。
「あおちゃん、ごめんね。もうちょっと待っててね」
 哺乳瓶をゆすぎながら、声をかける。しかしそれは逆効果だった。ゆりかごに寝ているだけでは姿が見えない母の声が、どこからか降ってきたので、息子は余計に自分の存在をアピールするように声を張り上げて泣き始めた。
 結局それから十分ほど、蒼人は泣き続けた。あまりに大きな声なので、夫が起きてこないか、もっと言えば近所迷惑だと近隣のどこから怒鳴り込んで来られたりしないか、気が気ではなかった。子どもが泣いてるのに、ほったらかしで何をやってるんだ。そんなありもしない声が、やけにリアルに耳奥でこだました。 

 緩い風が頬を撫でる。
 闇を見つめているうちに、無性にコーヒーが飲みたくなった。あの香ばしい挽きたての匂いが慕わしく、恋しかった。家にはコーヒーの代わりにと夫が用意してくれたたんぽぽコーヒーがあったけれど、あんなものでは満足できない。カフェインレスコーヒーでも駄目だ。普通のコーヒーを飲んで、スッキリと頭が冴えるあの感じが、今はとてつもなく欲しかった。
 明日も、明後日も、その次の日も。こんな日々は続いていくのだろうか。それに自分は耐えていかなくてはいけないのだろうか。
 もちろん、そうなのだろう。私は母親なのだから。仕事も辞め、夫にも犠牲を強い、それでも何とか息子だけは産んだのだ。それは出来て当たり前のことなのだ。
 世の中にはそもそも子どもを望まない人もいる。望んでも、子どもに恵まれない人もいる。そういう中で、自分は子どもを望み、そしてその望みを叶えたのだ。弱音を吐くなど間違っているし、子どもに関わるどんな艱難辛苦も、母親として当然の如く甘んじて受ける必要がある。
 けれどそう思う一方で、私の身体は素直にその理屈に肯んずることができない。時折強烈に襲う眠気、肩より上には上がらなくなった腕、ぼーっとして今自分が何をしているのか、何をしなくてはいけなかったのかわからなくなることなんてしょっちゅうだ。
 たった一日で良い。静かな部屋でゆっくり横になりたい。休みたい。働きもせず、家のことだって夫に手伝ってもらってやっとこなしているような自分に、それが大それた望みであるのは重々承知しているが、それでも限界がすぐ目の前にまで迫っていることを感じる。
 仕事をしていた頃の夢の他にも、最近繰り返し見る夢があるのだ。
 それは、蒼人を抱えたままこのベランダに立っている夢だ。私の頭は半分以上眠っていて、はっきりとしない。ただ吸い寄せられるようにベランダの手すりまで近づき、自分の身を乗り出してそこから蒼人を抱く腕をゆっくりと伸ばす——。
 いつもその瞬間、汗びっしょりで目を覚ます。絶対に起こってはいけないことだと、それだけはあってはならないことだと思い、しかしそんな夢を見るということは、潜在意識のどこかで自分がそれを望んでいるのではないかと思い、怖気おぞけを震う。 
 あの子に何かあることなど、考えられない。想像するだに血の気が引く。けれど、追い詰められ、判断が鈍っている今、自分が何か突拍子もないことを起こすのではないかと、自分で自分が信じられないのも事実だ。何と言っても私は周りの人たちの期待も、自分自身の期待も、裏切ってばかりいるような人間なのだから。
 私はもう一度ベランダ下の闇を覗いた。
 こんな高い場所から落ちれば。助かる人間など、まずいないだろう。だからこそ、私は絶対にここから碧人を落とすようなことがあってはならない。
 あの子を落とすくらいなら、自分が落ちた方が良い。
 子どもを殺すくらいなら、自分を殺した方がずっとずっと良い。
 そう思った時にはもう、身体の半分がベランダの外へと出ていた。意識が遠くなりかける。そのまま重力に身を任せれば、たちまち全身は闇の奥底まで滑り落ちてしまいそうだった。
 だが。
 すんでのところでそれを押し留めたのは、蒼人だった。
 耳をつんざくような大きな泣き声がして、我に返った。慌てて振り向き、ベランダを後にする。リビングでゆりかごの上に横たわった息子は、真っ赤な顔で両手足を必死でばたつかせ、不甲斐ない母を叱咤していた。
 私は息子を抱き上げた。
 腕は相変わらず痛かった。それでも息子の重みが、温かみが、痛みとともに今感じられるのはありがたかった。
 私は母なのだった。こんな情けない人間だけれど、それでもこの子にとってはただひとりの母なのだった。
 涙は出なかった。ただ、私の代わりのように泣き続ける息子を精一杯あやしながら、この子を抱ける喜びを、静かに、けれど確かに噛み締めていた。

 ***

 扉が開く音とともに、目が覚めた。
 ぼんやりとした意識の中で、また眠っていたのだ、と思う。でも、久々に良い夢を見た気がした。芯まで冷えていた身体が温まるような、そんな夢。
 部屋はいつの間にか薄明るくなっている。ああ、もう朝なのだ。時計を見遣るとちょうど四時半だった。
「ごめん、起こしちゃったね」
 背後から夫の声がして、私はそちらに向き直った。既にワイシャツに着替えた彼は、冷蔵庫から昨日の夕飯の残りものを取り出している。
「昨夜も蒼人、寝なかったの?」
「うん、あんまりね」
「大丈夫なの?目の下すごい隈だけど」
 話しながら、夫は取り出した皿やタッパーをレンジにかけていく。もうずっと夫の朝ごはんは有り合わせのもので我慢してもらっている。お米すら冷凍して置いてあるもので、朝食のために新しく炊いてあげるようなことはしていない。
 私に隈を指摘した夫の目の下には、やっぱり同じく隈があった。
 せめてこのひとに毎朝きちんとご飯を炊いて、お味噌汁を作って、簡単なおかず——例えば焼いた塩鮭やら、厚焼き卵くらい出してあげたら、とは思う。きんぴらとか白和えとか、時間のある時に簡単な常備菜を作っておいて、それを副菜につければ栄養バランスもいい。頭ではそうわかっているのに、そしてそんなおかず十分や十五分あれば作れるはずなのに、出来ない。何にも身体が動かない。
「ごめんね、何にも出来なくて」
 つい口から滑り落ちた言葉を、夫はどう思ったのか。にわかに口の端を笑ませた。
「お互い様だよ。僕は蒼人のことを君に任せっぱなしだし。そんなことより」
 夫は、温まった食事をテーブルに置きながら、先を続けた。
「本当に大丈夫なの?最近、ご飯もあんまり食べてないんじゃないの」 
 夫にまじまじと見つめられ、私は答えに窮して俯いた。
「夕飯さ、疲れてる時は別に作らなくていいんだよ。今時一食くらい、どっかで買ってきても、出前取っても、どうとでもなるんだしさ。君は本当に生真面目過ぎるよ。無理なんかしなくていいから、蒼人が寝てる間は休みなよ。今日くらいピザでも頼んで——」
 そこで、夫の言葉が止まった。視線も、私の肩の辺りを通り過ごして止まる。
「……蒼人は?」
「え?」
「蒼人だよ。ゆりかごにいないけど?」
 夫の声は聞こえたが、夫が何を言っているかは理解できなかった。生まれてまだ一ヶ月の赤ん坊が、自分で動けるわけもない。いないなんて、そんなこと。
 そこまで考えたところで、鼓動が一度大きく鳴った。
 いや、まさか。そんなわけはない。あれは夢だったのだ、と自分に言い聞かせる。短い眠りが時折見せる、悪い夢。やるわけがない。息子をベランダから落とすだなんて、そんなこと。振り返った向こうに、息子はいるはずだった。
 だが、願いは虚しかった。
 ゆりかごに息子の姿はなかった。
 青ざめて声を失った私を嘲笑うかのように、僅かに開いたベランダへの扉から吹く風が、レースカーテンを揺らした。

 ***

「どうしたの?大丈夫」
 瞼を上げると、その先に夫の心配そうな顔があった。夫はまだ部屋着のままで着替えておらず、ナイトライトだけが灯った部屋も暗い。壁時計の時間は、ちょうど四時半を指し示していた。
「……まだ暗いのね」
「ここのところは、五時半近くならなければ明るくなんてならないよ。そんなことより、大丈夫?ずいぶんうなされていたみたいだけど」
 夫の指が優しく私の前髪を払った。眸の縁に不安げな漣が立つ。
 それで、ようやくここが現実なのだと思った。今までのは全部夢で、ここが本当の私の世界なのだ、と。
「大丈夫だよ。……それより、昨夜はごめんね」
 私が言うと、夫はようやく少し顔を綻ばせた。
「何年かに一度あるかないかのことじゃない。なのに夕飯までわざわざ用意してもらって、こっちの方が悪いよ」
 僕だって子どもじゃないんだからさ。食事くらい、外で食べても、買ってきてもいいんだよ。夫はそう続けながら、キッチンに入った。それからコーヒーメーカーのスイッチをオンにする。
「コーヒー飲むでしょ?酔い覚ましにはちょうどいいよ」
「大丈夫。二次会ではほとんど飲んでないから、酔ってないよ」
 昨夜は同じ事務の後輩社員が結婚退職することになり、その送別会だった。結婚後は滅多なことがない限り、夫の朝が早いことを理由に一次会で帰るのが常だったが、彼女が入社してすぐから教育担当をしていたこともあり、是非にと言われて断りきれず二次会まで残ることになった。
 私はソファを立った。昨日はタクシーで二時過ぎに家に戻り、ここで眠ってしまったので、洋服もそのままだ。顔だけは洗ったが、仕事に出る前にはシャワーを浴びたい。けれど、何より今は空腹を感じた。
「朝ごはん、作ろっか。トーストとスクランブルエッグでいい?」
「ありがと」
 夫はマグカップにコーヒーを注ぎながら短く答えた。芳醇な香りが辺りに広がる。
「いい匂いだね」
「朝はやっぱり、淹れたてのコーヒーでしょ」
 屈託ない笑顔を見せる夫に、私は笑顔を返した。そのまま彼の後ろをすり抜け、卵を取ろうと冷蔵庫を開ける。ひんやりとした空気に当たって、不意にベランダの夢を思い出した。
 あれは、起こり得たもう一つの未来の夢だったのだろうか。もしそうなのだとしたら、子どもが生まれて幸せに満ちた夢でなかったことは、防衛本能の粋な計らいとでも呼ぶべきものなのかもしれない。少なくとも、目覚めて本当に良かった、と思う夢だったのだから。
 切迫流産で入院し、経過は順調だったはずの私のお腹の子は、妊娠二十四週目を迎えたところで心停止した。原因はわからなかった。ただ、私の子どもは生きて生まれることはなかった。
 妊娠十二週以降に子宮の中で胎児が亡くなった場合、人工的に陣痛を起こして出産しなくてはならないことになっている。つまり、死んでいるとわかっていながら、通常通り痛みを堪えながら分娩しなくてはならない。生んだあとは生んだあとで、母体には相応の変化が起こる。母乳も出るし、悪露も続く。それでも、子どもは死んでいるのである。
 お腹にいた子どもは男の子だった。二十四週ともなると、身体は小さくともその形はしっかり人間の姿をしていた。眠っているような目元は夫によく似ていて、引き結ばれた口の感じは私自身に似ているような気がした。
 明らかな死産だった息子に名前は必要なかったけれど、その子を棺に入れる際、私と夫はかねてから考えてあった名前を書いた命名札を入れてもらった。
 『蒼人』という名前は私がつけた。会社の傍のカフェで見ていたあの美しい空のように、澄んだ心を持った人になってほしい。月並みで、ありふれた、そんな願いを込めていた。
 子どもが死産だったことを聞いて、元の上司が私に復職を持ちかけてきたのは、退院して二ヶ月ほど経った頃だった。
『元々辞める予定じゃなかったんだし、気分転換に利用してくれるんでもいい。君がきてくれるとありがたい』
 もっと別の若い人を雇うことだってできただろう。なのに、わざわざ声をかけてくれるその優しさに私は救われた。言われるまま仕事に戻り、まもなく三ヶ月。私は少しずつ、通常の生活を取り戻し始めている。蒼人が存在する前の生活を。
「ねえ、あれさ、どうする?」
 朝食の用意を終え、テーブルに向かいあったところで、夫がおずおずとそう言い出した。
 あれ、が何を指すのかはわかっていた。なので、敢えて問い直すこともしなかった。そのかわり、自分の心を整えるためにひと口、夫の入れたコーヒーを含んだ。
「いつまでもリビングにこのままっていうわけにもいかないでしょ」 
 そう告げる夫は、多分辛いのだろう。それを見るたびに、生きて生まれることのなかった自分の子どもを思い出すことが。しかし、私の気持ちはまた違った。
「もう少しこのままじゃダメかな。……あの子が確かにいた証だから」
 言って、私はまたコーヒーを飲んだ。
 リビングに置きっぱなしの籐のゆりかご。
 お腹に子どもがいると聞いて喜んだ夫が、他のものをさておき買ってきたあれだけが、今は蒼人がいたことを証明する手立てのように、リビングに所在なく置かれている。
「……君がそう言うなら」
 夫は諦めの色を眉のあたりに滲ませ、唇だけで微笑んだ。
 私はそれを見なかったことにし、いただきますと手を合わせ、大皿のスクランブルエッグを取った。
 そのまま口に運ぶ。
 いつもはなんとも思わないトマトケチャプが、今日に限ってやけにしょっぱい気がした。

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