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イランの銅食器、使ってみませんか

イランの食卓ではよく銅食器が登場します。ご飯、お肉、野菜、果物、ヨーグルト、熱いスープとなんでも彼らは銅食器に盛りつけます。

何よりも見た目が大変美しく、陶器やガラスとは違って割れることもなく、どんなに熱いものも冷たいものも盛り付けることができ、銅や錫引きはミネラル豊富で体によく、食洗機でも洗える銅食器。マルチタスクで常に忙しくて疲れているこのご時世、いくら丁寧な生活を心がけていてもどうしても陶器やガラスって割ってしまうと、ちょっとした自己嫌悪に陥って嫌なことが続きそう、負のスパイラルの入り口なのかもと思い込んでしまうことありますよね。

イラン銅食器との出会いは2023年春、9年ぶり3度目のイラン旅行中でした。偶然にもイラン銅生産や銅加工で盛んな南東部ケルマーンの家庭に招かれた時私にインスピレーションが自然と降りてきました。そうだ、日本でイランの銅食器を広めてみたいと。

石川県九谷焼の故郷に生まれ、大学卒業後はスイス、アゼルバイジャン、タジキスタン、そしてロシアで生活してきました。私自身も九谷焼を子供のころから勉強しており、海外の友人にはいつも九谷焼を持っていきましたが、陶器は本当に割れやすいです。また今までの海外生活では食卓に並ぶ食器はいつも白地で使い捨てのような安っぽくて味気のないものばかり。食器にはやはり華が少しでもあってほしい。だからいつも九谷焼を日本から持参して使っていました。

イランなんて、と思う方もいるかもしれません。かつてのペルシャであればその栄華と歴史にロマンティシズムを抱きますが、イランなんて大方の日本人にとっては謎のベールに包まれたままの国です。厳格なイスラム教、テロ、核開発、悪の枢軸と呼ばれ知る必要もないという方もいるでしょう。

人間一日2,3回は必ずご飯を食べます。割れやすい陶器と違い全く割れない万能な銅食器、それ以上にこの輝くような美しさ。。。2011年にイランを訪問して以来、2022年以降大きな地政学的な変化の中心であるロシア・モスクワで勤務しているのになぜか私はイランの文化や生活風俗に魅了されています。

This too shall pass (In niz bogzarad این نیز بگذرد)というペルシャの諺があります。「これもまた過ぎ去ることになるだろう」といういいことも悪いこともいつかは必ず終わりが来るという意味で「ケセラセラ」、日本の「諸行無常」に通じていますよね。イランの友人たちの解釈もそれぞれで、人生ってそんなに難しく考える必要ないよ、何事も永遠は無くて変わっていくものだよとそれぞれの解釈を行っていますが、殆どが人生をプラスにとらえる意味です。

イランの銅食器は毎日使ったとしても100年ぐらいの耐久性と美しさがあります。悩みや辛さが永遠に続くのではと、この先の見えない世の中では身悶えしたくなることが沢山あります。そんな世の中だからこそ悠久の歴史を持つ、そして現代社会ではちょっと違うスタンスを持つイランという国のエッセンスを日常生活に加えてみませんか?



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