音楽至上主義
ポートエレンというウイスキーがある。ボウモアなどと同じアイラ島の蒸留所で1825年創業、1983年に完全に操業を停止した。
それまでも戦前〜戦後にかけて操業を停止していたこともあり、流通量が少なく「幻のアイラウイスキー」といわれ高値で取引されている。もちろん飲んだことはない。が、すこぶる美味いらしい。
しかし本当に美味いのだろうか?
もちろん美味いのだろうが、そこには品質以上に希少性という付加価値が備わっているのは言うまでもない。
もし、ポートエレンが今でも作られていて簡単に入手出来たなら多分違った評価になっているだろう。酒そのものの品質のみを問題にするならば、希少性やその他の付加価値は本来関係ないはずだ。
しかし人が酒を味わうとき、純粋にその味や香りだけを感じているのだろうか?食べ物と違って別に無くても構わない酒は「嗜好品」であり、それ自体が一種の「娯楽」である。
アイラ島、港町、潮風、そして閉鎖された蒸留所… そういった思いを馳せるべき「物語」込みで人は楽しみ、またそれに対価を支払う。
そして同じことが音楽にも言える。音楽もまた「嗜好品」だ。
多くの人は音楽にいろいろな物語を求め、重ね合わせる。
「演奏に人柄がにじみ出ていますね」というのはよく聞く、そしてとても有難い褒め言葉であるが、実は褒められているのは音楽ではなく人柄。そういえばバッハの音楽に「彼の人柄を感じる」という話はあまり聞かない。
もしそういった音楽以外を一切排除したものを「音楽至上主義」と呼ぶならば、そこではそれを鳴らしている音楽家が、難病を乗り越えようが人を殺そうが関係なく正当に評価を受けなければならない。
しかしこの「音楽至上主義」なるものは必要なのであろうか?またそれを厳格に持つ者がいるだろうか?
おそらく答えは"NO"だろう。また、そのお陰で我々の多くは何とか生き延びているとも言える。もしこれを厳格に適用するならば、歴史に名を残す者のみが必要とされるということになるだろう。「歴史」こそ最も厳格なる「音楽至上主義者」なのだ。
しかしながら、演る側も聴く側も「歴史」ではなく「現在」に生きている。そしておそらくその不足分を補うのが「物語」といった付加価値なのかもしれない。
ここで問題になるのは、そういった「付加価値」と本来の「実力」のバランスだ。
物語も大切だろうし、付加価値も大事だろうがやはり肝心なのは中味。
ポートエレンにしたって「物語」を支えるだけの品質があってこそ「伝説の」といわれるのだろう。
潰れて話題にも残らない蒸留所などいくつだってあるのだから。