万事休す

万事休すとはこの事だ。
思ったより早く着いたのは良かった。セッティングをしたらお茶でも飲んでゆっくりしようと思っていた。
しかし車のトランクを開けて一瞬状況が分からなくなってしまった。
タキシードを入れたガーメントケースは有る。しかし、楽器が見当たらない。
「多分後部座席だろう…」
しかしやはりそこにも無い。
血の気が引いて行くのが、まるで他人事のようによくわかった。
ここは茨城県の牛久で結婚式の仕事。編成はピアノとデュオ。
万事休すだ。

その日は朝早かった。
渋滞を避けるために早めに行こうという訳で、ピアニストが7:30にピックアップしてくれる事になっていた。
時間キッカリに電話があり、表のバス通りの角にあるコンビニの前で待っているとの事。既に身支度を済ませていた僕はすぐに家を出て荷物をクルマのトランクに詰め込んだ、ハズである。
しかし、今ここに有るのはガーメントケースのみ。
もう一度車内を探すが財布だケータイだとは訳が違う。無いものはやはり無いのだ。
「どうしよう…」

とにかく何とか楽器を調達しなければならない。でもどうやって?
「この辺りの楽器屋を当たってみろ」
しかし多分それは無理だ。
今日は日曜日で朝の9時前。おそらく楽器屋の開店は早くて10時だろう。

それよりも何よりも楽器の行方が気になる。僕の楽器は見てくれは悪いが所謂ヴィンテージ物で、現行の新品が3つほど買える値段なのだ。恐らく最も考えられるのはクルマに積み込む際に置き忘れたという事。例のコンビニの前だ。いや、待てよ、あそこはゴミ置き場になってたんじゃないか?
N.Y.のとあるベーシストが家を出る時忘れ物に気が付き、楽器を表に置いたまま取りに行き、戻った時にはケースごとゴミ収集車に飲み込まれた後だった、という僕達の間では有名な話が頭をよぎる。
「これはマズイ事になったぞ…」

当時はまだスマホなどは無く、104番号案内でコンビニを探し、つないでもらった。

結果は見当たらないとの事。

「三木、お前、ウタ、歌えるか?最悪サックスが急病で倒れて急遽ボーカリストを連れて来た、という事にするしかないだろう?」仕事を取り仕切るピアニストは困り切っていた。
「ム、む、無理すよ、そんな…歌なんか歌ったこと無いし、第一歌詞知ってる曲なんて有りませんよ」
「歌詞は俺が書いてやる。だってお前、英語しゃべれるじゃないか」
カラオケにも行った事のない僕がタキシードを着てマイクを握り、新郎新婦の前で「フライミートゥーザムーン」…
こちらも万事休すだ。

いや、待てよ、今日は日曜日。普通、ゴミ収集日ではないはず。コンビニの前に無いとすると誰かに持って行かれたか、或いはそもそも僕が持って来ていないかのどちらかだ。さすがに後者とは考えにくいが100%無いとは言い切れない。

当時住んでいたアパートは江古田という土地柄もあり、知り合いのミュージシャンが何人か住んでいた。しかし、皆まだ寝ている時間だ。何しろまだ9時をまわったところなのだから。
試しにそのうちの一人に電話をしてみる。
やはり出ない。
待てよ、もう一人の彼は普段は勤め人だったはずだ。そうだ、昼間サラリーマンをしながら音楽活動をし、アルバムも出しているK君がいるじゃないか。祈る様な気持ちで携帯を耳に当てる。

「はい、もしもし、お早うございます」
その声は眠たそうではあるが、祝福に満ちていた。

「K君、朝早くから申し訳ない。実は頼みが有るんだ、よく聞いてほしい。
アパート入口の僕のポスト、分かるかな、そう、203。その中に部屋の鍵が入っている。その鍵で僕の部屋に入ってくれないか?そして楽器が有るかどうか見てきて欲しいんだ。」

鍵の付いていないポストに部屋の鍵を入れているなんて、随分不用心な話しだが、これにはまた別途長い話しがある。

「え、楽器ですか?まぁ、わかりました。確認して電話します」

電話はすぐに掛かってきた。
「部屋の奥にスタンドに乗ってるサックスと、あと玄関にケースに入ったのが有りますね。中は開けてないですけど」
「そ、それだ!」
「まさか三木さん楽器持って行くの忘れたんですか?凄いスね、でもマズイでしょ。どうしましょう、今どこですか?」

「…それが、う、牛久…なんだ。そう、茨城県の牛久。電車で1時間半はかかる所なんだけど…。その…無理だよね…」
本番は11時からで、今すぐ出てくれれば何とかギリギリ間に合うかもしれないのだが。

「うーん、午後にちょうど秋葉原に出掛ける用事があるので、今から行くんでしたら大丈夫ですよ」

握りしめた携帯から聴こえる彼の声は神々しいまでに祝福に満ち溢れていた。僕は何か大きな力に護られているとしか思えなかった。

あれから何年の月日が経ったのだろう。
今でも「あの大きな力」に護られているのを感じる事がある。
と同時に、その大きな力によって今尚、僕の悪癖までが護られてしまっているというのも事実なのだが…

ともあれ、唐沢寧さん、その節は大変お世話になりました。有難うございます。

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