交番のお巡りさん

昔住んでいた所から最も近い山手線の駅は目白だった。自転車で15分程度。
その日は確か鹿児島日帰りという強行スケジュールで羽田空港に向かっていた。当時はまだ現在の場所より随分手前にあった頃で浜松町からモノレールに乗って行く。
支度に手間取って家を出るのが少し遅くなってしまった。急がねば。

目白は山手線で浜松町のちょうど反対側なので新宿回りでも池袋回りでもほとんど同じ。
当時はまだSuicaやPASMOなどというものはなく現金で切符を買うのだが、その頃は山手線回数券というのがあり、財布にはいつもそれが入っている。なので切符を買わずに回数券で入場する。
目白駅は上下線がホームを共有する、いわゆる「島式」なので先に来た方の電車に乗れば良い。大丈夫、ギリギリ間に合うはず。

と思ってポケットに手を入れた瞬間に財布を忘れたことに気がつく。
一瞬、気が遠くなるような、それでいてまるで他人ごとのような、あの感覚。

当時の航空券は大きくて財布に入らないので事務所から郵送されてきた封筒のまま上着のポケットに入れてある。財布はない。もちろん往復30分かけて取りに帰る時間もない。どうすればいいのか。

その時、ふとどこかで聞いた「緊急時は交番でお金が借りられる」という話が頭がよぎった。「本当なのか?」
おそらく駅で事情を話せば振替乗車券のようなものを出してくれるのかもしれないが、浜松町でモノレールに乗る時もまたそれをしなければならない。もしそこでアウトならお終い。鹿児島行きは1日に何便もないのだ。

いろいろな考えを巡らせた結果、とりあえず交番に行ってみることにした。幸い交番は目の前にある。

「すみません」
「はい、どうされました?」
若く感じの良いお巡りさんだった。

「実は財布を忘れてしまい、これから羽田空港に行かなければならないのですが、お、お金貸していただく訳にはいかないでしょうか…」

「うーん、それはどうですかね。基本的には出来ないんですよ」

すると奥から上司らしいお巡りさんが出てきた。
「え、何?とりあえず身分証あるかな?」
「いや、財布を忘れたので」
「じゃ、航空券は?」
「持ってます」
「航空券持ってるのに何で財布持ってないの?」
(あぁ、今そんな話をしている場合じゃないのに!)
「飛行機でどこ行くの?鹿児島?随分遠いね。え、日帰り?で、仕事は?へぇ音楽やってんの?どんな?それ何?ギター?あ、サックス?サックスってどんなんだっけ?」と言ってトロンボーンを吹く真似をする。

「あの、もう時間がないんです!貸してくれるんですか、くれないんですか!」
「そんな事言われてもね、普通身分証も持ってない人にお金貸す人いないよ」
「だからこうやって頼んでるんじゃないですか!」
「ちょっと確認するから。で、いくら貸して欲しいの?」
「電車賃だけでいいです。千円、いや出来れば2千円」
「あ、2千円は無理。ま、ちょっと待ってよ」と言ってどこかに電話をかける。
時間はもう無い。鹿児島行きは1日に何便もないのに。

「ま、今回はいろいろな事情を鑑みまして、特別にお貸ししましょう。
ここに名前、住所、電話番号を書いて」
「有難うございます。今日の夜に帰ってきますので必ずお返しに上がります」
「で、音楽の仕事ってどんなの?コンサートか何か?」
「あ、いや、その話はまた夜にでも」

僕は出された千円札をおそらくひったくるようにして交番を後にした。

切符を買い、池袋方面の電車に飛び乗り祈るような気持ちで浜松町を待ちわびる。
まだスマホもYahoo乗り換え案内もない時代。
モノレールを乗り継ぎようやく羽田空港へ。汗だくになってチェックインカウンターでチケットを見せると「すでに搭乗案内は終えております」
もう泣きそうだ。帰りの電車賃だってないのに。
「お願いです。どうしてもこの飛行機に乗らなければならないんです!」
グラウンドスタッフの女性はトランシーバーで何か連絡を取り、
「走れますか?」
「もちろんです!」

何とか間に合った。
メンバーは既に搭乗しており飛行機は予定より15分遅れで離陸した。
僕は謝りながらマネージャーに事情を話し、お金を借りた。

長い長い一日だった。
帰りの鹿児島空港でお土産を買い戻ったその足で目白駅の交番を再訪。
今朝ここでお金を借りたのがもう随分昔のことのように思われた。

「いや、ご苦労さん、間に合った?」
「有難うございます。お陰様で本当に助かりました。」
「今回は本当に特別だから。いつもこんなことしてる訳じゃないからね」
「はい、以後気をつけます」

「で、音楽やってんだよね。」
「あ、はい、何とか…」
自分は駆け出しのジャズミュージシャンであることなどを手短に話した。
すると、やはりお巡りさんは多くの人と同じようにこう聞く。

「じゃテレビとか出てるの?」

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