都会人と田舎者

随分昔に白洲正子さんがご自身のエッセイで「ファッションブックから抜け出したような男女は、田舎者にかぎる」と書いていて、今でいうところの炎上のようになったことがある。確かに随分な言い草だと思うのだが、続けて「田舎に住んで、まともな生活をしている人々を田舎者とはいわない。都会の中で恥も外聞もなく振舞う人種を、イナカモンと呼ぶのである」と。

「田舎者」と言えば、それは「都会へのコンプレックス」というようなネガティヴな意味合いを持つ。立ち振舞いが洗練されていないのみならず、舐められたくない、馬鹿にされたくない、というような態度が透けて見える者に対する失笑を含んだ言葉。
例えば東京において大阪人が嫌われる主な理由は「都会の中で恥も外聞もなく振舞う人種」つまり、自分のことを田舎者だと思っていないところだろう。「田舎者は田舎者らしくしておれ」と。

しかし、そもそも都会は田舎者の手によって作られ、支えられ、消費されている。東京で言えば六本木ヒルズのような建物にはその田舎者の中で最も成功したような人々が集っていて、そういう野心の総量が東京のような大都市を発展させてきた。それは都会が都会であるために必要不可欠な存在だ。

音楽においてもジャズというのは都会の音楽であり、アメリカでもジャズがビジネスとして成り立つ、あるいは生活の中にある程度溶け込んでいるのはかなりの大都市のみである。
世界中からチャンスと出会い、あるいは環境を求めてジャズミュージシャンのやって来るニューヨークは「世界中の田舎者」が集まっているわけだ。

例えばチャーリー・パーカーは複雑なメロディーを駆使し、タイトルも「人類学」とか「鳥類学」など随分難しいものが多い。パーカーと行動を共にしていた頃のマイルスも同様。パーカーはミズーリ州、マイルスはイリノイ州の出身。
それに対し生粋のニューヨーカーであるソニー・ロリンズはどうだろう。セント・トーマスに代表される彼の曲のなんと気取りのない、大らかで牧歌的なことか。
パーカーの元を離れたマイルスはやがてそのことに気がついたのではないだろうか。
彼は生涯で同じタイトルの曲目を2つ作っている。ニューヨークに出てきたばかりでパーカーとやったものと、パーカーの元を離れたもの。

よく、「三木さんの曲はカッコイイですね」とか「まるでニューヨークにいるみたいです」的なことを言われることがあり、それはそれで有り難く、また、本人もまんざらではないのだけれど、最近はそういうときに「あ、やっぱり自分は田舎者なんだな」と思う。
ファッションやクルマなどには全く興味は無いけど音楽だけは「カッコよく」ありたいと思っていた。

「都会的なものはすべて田舎者によって作られる」のだけれど、そういった野心から自由になった音楽って良いものだなとしみじみ思う今日この頃。

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