自分に求められているもの

「だが、情熱はある」の録画を観ている。
南海キャンディーズの山里亮太さんとオードリーの若林正恭さんの実録ドラマ。
山里さんは僕と同じ大学出身で、若林さんは中央区入船のご出身。僕は昔、隣の湊に住んでいた。

「このドラマはサクセスストーリーではない」とのナレーションが入るが、今や山里さんや若林さんと言えば押しも押されぬお笑い界の第一人者。もちろん経済的にも成功しているのだろうけど、20代の頃は何をやってもウケず貧乏に喘いでいた。ドラマはその時代から、ようやく売れ出した2009年頃、そして現在を行きつ戻りつしながら進んでいく。

しかし全く泣かず飛ばすの彼らが認められるようになったのは、果たしてお笑いの技術が向上したためなのか、あるいは世の中が彼らに追いついたからなのか?

山里さんはこの3月をもって終了したTBSラジオ「赤江珠緒たまむすび」火曜日のパートナー。
番組終了後に始まった同じく水曜日パートナー、博多大吉さんのポッドキャストで「たまむすび」のディレクターが、山里さんの番組台本を「ここでこうツッコミを入れてくれたらなぁ」と思いながら書いて、本番で思い描いていた通りのタイミングでツッコんでくれた時の快感がたまらない、と話していた。
大吉さんも「やはり彼のそういう能力は本当に凄いから」と。

こういった「自分に求められているもの」の技術やスキルを向上させるのは研究や練習、そしてなにより経験。しかし駆け出しのお笑い芸人にはまだ誰からも何も求められていない。したがって経験の場も与えられない。
「自分が求められるようになるには何が必要なのか、それは自分のやりたいことなのか」そして「それをいつまで続けるのか」を模索する。
これはジャズの世界も同じ。

しかし楽器の演奏のような一種の特殊技能と違って、言わば誰もが日常的にやっている「会話」で人を笑わせ、お金を得るのことが出来るのはごく限られた者のみ。しかも「知る人ぞ知る」程度ではなかなか生活は成り立たないのだろう。山里さんや若林さんの名は今や道行く人の誰もが知っている。
つまりお笑いで食べていくために必要なのはまず有名であることで、そのために必要なのは「有名であること」。無名には何も与えられない。これはジャズ界と大きく違うところ。

その「無」から「有」に転じる夢の機会がM-1やR-1といった賞レースなのだろう。実際に「今度結果を出せなかったらお笑いを辞める」という芸人は多いという。オードリーも南海キャンディーズもM-1で準優勝している。
しかしこれは難しいもので、元々お笑いに興味のない僕なんかが観ても、何が面白いのか、どこを見て笑えばいいのかさっぱりわからないものがほとんど。
ま、この点はジャズも同じか。

お笑いには興味がないけど、お笑い芸人の生き方には興味があり、またそれを演じる俳優さん達には非常に感銘を受けるのでこのドラマは最後まで観ようと思います。

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