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No.222 理容師九藤さんとの触れ合い (1)「理容室アダム」での出会い

No.222 理容師九藤さんとの触れ合い (1)「理容室アダム」での出会い

同い年の理容師九藤さん(仮名)との付き合いも、早いものだ、35年の月日を数える。現在、東京都新宿区市ヶ谷駅の近くのビルの駐車場の奥、隠れ家のような店で奥様と二人、九藤さんはいつもにこやかにお客さんを迎えている。

マッサージ機能もついた3脚の理容室専用の椅子の周りを、九藤さんの目に叶った沢山の観葉植物や、趣味のいい絵画とインテリア製品が飾る。ここにご自身の店を構えて30年近くの月日が流れた。偶然であるが、僕が38歳で入学した上智大学比較文化学部の市ヶ谷キャンパス(No.176 No.177)が近くにあり、4年間の在学中には授業の合間に足を運んだこともあった。

出会いが35年前、九藤さんが自分のお店を持たれて30年近く。そう、九藤さんとの出会いは市ヶ谷ではなかった。

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東京都港区赤坂御用地の南西部、青山通りと外苑東通りの交差点「青山一丁目」側に、地上23階地下4階の新青山ビル東館・西館、俗称「青山ツインタワービル」がそびえる。何処かから聞いた話だが、皇居やここ赤坂御用地など皇室関係の周辺の高層ビルの窓や屋上の設計は、御用地施設などが俯瞰できないように考慮されているとのことだ。

青山ツインタワービルの近くに「山王メディカルセンター」がある。ホテル並みのサービスと全室個室の高級病院として知られる「山王病院」の医療検査施設である。この施設の隣のビルの地下1階に、やはり隠れ家のように「理容室アダム」があった。バブル経済の崩壊と共に閉店して、今はない。

そもそも、赤坂や永田町を含む港区や千代田区などは、東京都23区の中で馴染みの深い場所ではなかった。思い返してみると、多くの人がそうかもしれないが、日常のみならず休日に訪れる場所も意外と限られていて、僕の場合、結婚前は住まいの板橋区、東武東上線のターミナル駅池袋のある豊島区や、映画館や海賊盤レコード店が多い新宿区歌舞伎町や西新宿などがテリトリーとなっていた。

僕は22歳の時、三歳年上の由理くんと結婚式を挙げた。二人で家業の酒販店を切り盛りし、休業日の水曜日を中心に、華やかな中央区銀座をはじめとして、行動範囲はグルメと映画館や美術館を求めて23区内全域に広がっていった。故郷の福島県いわき市では味わえない、発着時間を気にしなくてよい公共機関の便利さ、ひと駅違うと別の顔を見せる東京の街の多様さ、足を運ばないにせよいつでも触れることのできる美術展やライブなどの文化、東京のそんな自由さに魅せられていった。

今やミシュラン掲載も断り、一見さんお断りの寿司店「すきやばし次郎」にも、30代の頃には馴染み客として度々訪れた(No.098 No.099)。グルメ本に掲載されていた蕎麦屋さんや有名フレンチレストランにも、好奇心の赴くままに足を運んだ。雑誌「ぴあ」などの情報をもとに、たくさんの映画を観て、東京中の美術館を訪れた。我々夫婦も、1980年台当時のバブル景気の狂騒に、楽しくも浮かされていたところも大いにあった。

そんな折、福岡市博多に高級ふぐ料亭を構える義理の姉夫婦が、東京都港区赤坂の一角に東京店を開店した。当時、酒屋商売をしていた関係で、こちらのお店に酒類や調味料などを納めさせていただいた。場所柄、政治家・経済界の著名人・芸能関係者などの顧客も多かった。こちらのお店に関しても様々な思い出がある。

ナビシステムが無かった時代は、道を覚えるために交差点の名前を意識し、特徴ある看板や建物の形状などを記憶していったものだ。信濃町方面から青山に向かい、青山一丁目の交差点を左折してすぐに右折の必要から右車線に入る。ここの信号機では、必ず赤信号で止められる。そこから車線を隔てた左側に赤坂郵便局があり、その先に、理容室を示す赤青白がくるくると回るあの独特のサインポールがあった。だが、店舗らしきものは見当たらず、いつも奇妙な感覚を持ってその前を通り過ぎた。

こうして、赤坂や乃木坂は急速に馴染みの場所となり、庶民の街板橋区中板橋から愛車を駆使して、明治通りや外苑西通りを経て、人々の喧騒溢れる池袋や新宿とは雰囲気の違う、大人の色気も感じさせる赤坂の街に、迷うことなく着けるようになっていった。

バブル景気のさなか、1987年(昭和62年)の春先の頃、快晴の空に太陽が眩しかった。いつもの様に赤坂郵便局のところを右折すると、あのサインポールが回る隣に、大きな矢印が入り口コンクリート床に書かれてあるのに気づいた。思わず車のハンドルを左に切り、矢印に導かれるように建物の中に当時の愛車カローラバンを走らせる。「理容室アダム専用」と書かれた場所の一つに停車して降りてみると、天井の低い古ぼけた駐車場に停められている車はメルセデスベンツやBMWなどの高級車が目立った。

建物の正面入り口の小部屋にいる守衛さんと目があったが、こちらに話しかけてもこなかった。正面エレベーターのほか、右側に地下に向かう階段があり「理容室アダム」と洋食レストランさんの看板があった。事務所などの他に店舗が入る雑居ビルゆえの守衛さんの心得と思われた。

狭めの階段を降りる頃には、陽光から遮断されたビル内の暗さに目が慣れつつあった。階下のすぐ右側に「理容室アダム」と書かれた両開きのガラス戸があった。扉をそっと恐る恐る押して、店内に身体を滑り込ませた。「いらっしゃいませ」ひとりの男性が僕に気づき近づいてきてくれた。男性の背後、お店の様子がボヤっと視界に入った。いくつもの観葉植物、理容師の装いの男性が四・五人、理容椅子がいくつか。奥行きがあり思ったよりもずっと広いお店だった。

初めてのお店、僕にしては珍しく緊張もしていた。この時僕は30歳代前半、両親共に髪の毛が薄めで猫っ毛、親から受け継いだ自分の髪に対してコンプレックスを持ち、幼少時より「床屋さん」は苦手だった。住まいの板橋付近で、理容室のほかに女性客相手の美容院などへも行ってみたが、しっくりとくるヘアースタイルを作り上げてくれるお店には巡り会えていなかった。

「飛び込みなのですが…」僕が告げる。男性は静かに「どうぞ、こちらに」と、入り口に一番近い理容椅子を指し示した。愛想笑いなどはしない、男性の職人気質の誠実さが僕に届いた。

快晴の日、一条の陽光も射さない地下の一室、今に続く理容師九藤さんとの出会いは、穏やかなものだった。

・・・続く

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