アレルギー持ちで偏食の女が、平野紗季子の本を読んだら
自分の偏食ぶりを人に説明するとき、真っ先に思い出すのは小籠包だ。
まだ熱い小籠包を、噛まずに丸呑みして舌の奥深くに火傷を作ったことがある。19歳のときだった。熱いわ喉が詰まるわで死ぬかと思った(ガチで危険なので真似しないでください)。
言わずもがな、小籠包の正しい食べ方は「レンゲの上に小籠包を置き、軽く箸で裂いて中のスープを吸い出してから食べる」である。でも私はそのことを知らなかった。成人を目前にしても、日本でメジャーな中華料理の大半をまだ食べたことがなかったのだ。
チャーハン、エビチリ、麻婆豆腐、焼売、餃子、春巻き、小籠包。これら全て、19歳の私が未体験だった料理である。
ただし、小籠包を丸呑みするなんて暴挙に出た理由は、食べ方を知らなかったからというだけではない。ただただ食べたくなかったのだ。
20代前半までは、肉を使った料理全般が苦手だった。小籠包も、今なら普通に食べるが、この頃にはごめんこうむりたいカテゴリに入っていた。
しかし、仕事でお世話になっている人との食事会で、その方がわざわざ取り分けてくださった小籠包を前に「食べたくないっす!」などとは言えない。さりとて普通に食べるのも恐ろしく、味を感じなくてもいいように丸呑みしたのである。
こんなバカなことをするくらい、私は偏食家だった。いや、過去形ではない。現在進行形でそうだ。昔よりは食べられるものも増えたが、いまだに口に入れたくないものが山ほどある。飲食店ではどれだけメニューが多くてもあまり迷わない。食べたいと思うものの方が少ないからだ。
なぜそんなに偏食が強いのか。
理由はいくつかあるが、そもそもの元凶は小さい頃の食品アレルギーである。
私は生まれつき、父譲りのひどいアレルギー体質だった。症状が激しかったのは主に喘息と鼻炎、そしてアトピー性皮膚炎である。
大人になるにつれて緩和されていったものの、小さい頃は口にするもの、触れるものについて大量の制限があった。なんせどこに行っても、何をしても食べてもすぐさま喘息、湿疹、発熱なのである。母乳育児をしていた母も私の食事制限に巻き込まれ、産後の1〜2年は野菜とアワやヒエしか食べていなかったという。
さらに、この体質とセットで発動していたのが強烈な感覚過敏だ。少しでも気に入らない手触りや味や音に触れると我慢できず、無理に我慢していると蕁麻疹が出るなどして体調を崩した。
こういう体質・性質をしていたら、食の幅など広がるわけがない。
周りの子どもが食べたがるものの大半が、私にとっては興味の範疇外だった。食べられなくて辛いとは思わず、いやいや食べても美味しいとは思えなかった。
幼い頃は弁当式の幼稚園に通い、外食では絶対に大丈夫だとわかっている料理しか食べず、日々の食事はほぼ固定化されていた。
小学校に入ってからは給食を避けられなかったが、そこでも私は主食(ごはん、パン、麺)しか食べないという強硬姿勢を貫いた。何がなんでも食べろ、と教師に迫られたときは、監視の目を盗んで食べ物を何かに包んで持ち帰った。それでも逃げられないときは心を無にして丸呑み。友達の家に行って菓子や料理を出されそうになると、いかにも申し訳なさそうに相手の親にアレルギーの説明をした。
その後、自分なりに時間をかけて食の幅を広げた。今では餃子だって小籠包だって食べられる。丸呑みはもうしない。
それでも、私が偏食家であることは変わらない。ナッツ、大豆、果物などへのアレルギーは今でも残っているし、症状は出なくても嫌いなものは食べたくない。アレルギー対象食品や嫌いなものを回避するのが難しいから、海外旅行にもそれほど行きたいと思わない。
この件で、「かわいそうに」だの「人生損してる」だの、これまで百万回言われてきた。
が、私に言わせれば余計なお世話である。中島義道の『ぼくは偏食人間』ではないが、食べたくないものは食べたくない、で終わりなのだ。「食べたいものの幅が世間一般より狭い」こと自体による不便もさほど感じていない。料理は好きだから、基本的には自分の好きなものを食べて生きている。
私が本当に不便を感じるのは、「いろんなものを食べる快楽」を一切疑わずに生きている人たちと、食事をしたり食の話を共有したりするときだけである。
彼彼女らの前に出ると、自分が本当に無力で透明な存在に思える。そういう時だけは、自分の偏食が哀しい。
そんな大偏食家の私が、平野紗季子さんの新作エッセイ『ショートケーキは背中から』を読んだ。
平野紗季子さんと言えば、かれこれ10年も前に、20代前半でデビューしたフードエッセイストだ。学生の頃から美食を求めて東京のさまざまなレストランに出入りし、今や全国津々浦々の名店にも通じる美食家である。私とは正反対の属性の人であると言っても過言でない。
本書を読んで、美食家へのコンプレックスで胸焼け、あるいは胃もたれしそうになった。
コラム「①レストランが教えてくれるもの」の冒頭である。
この数行だけで、ウッとうめいて本を閉じたくなる。大学2年。平野さんが19か20の頃だろう。彼女が六本木で妥協なきランチを探していた年齢で、私は食べたことのなかった小籠包を喉に詰まらせて火傷していたわけだ。うへえ。
平野さんのような人に、私は強い憧れと気後れを感じる。
ライターという職業柄、これまでいろんな人と会ってきた。政治家とも、経営者とも、売れっ子芸能人とも会ったことがある。そういう人たちに対して、多少緊張することはあっても劣等感をおぼえたことはない。所詮同じ人間、社会での役割が違うだけの存在だと思っている。
でも美食家は駄目だ。正直言って怖い。『美味しんぼ』の山岡士郎は私がこの世でもっとも結婚したくない男だし、同じ理由で、平野紗季子の前に出たら恥ずかしくて惨めで逃げ出すだろう。
美食は私から見ると、「豊かで開いている」人の営みだ。過剰で、なのに軽やかで、洒落ている。それは平野さんの書いているように、味もそれを体験した時間も、どれだけ頑張っても「消えてしまうもの」だからかもしれない。
すぐに消化され、失われてしまう夢をどこまでも執拗に、でものびのびと追求する贅沢(もちろん単純にお金もかかる!)。それは、貧乏育ちでアレルギー体質で偏屈な私には一生辿り着けない世界だ、と感じてならない。
この本には平野さんの、驚くほど執拗でのびのびとした感性が惜しげもなく詰まっている。焼きたてのスコーンを「オオカミの口のような裂け目をまふっとふたつに割ると」などと描写できる人がほかにいるだろうか。
ちょうど今日、WEB記事で「『抜けるような青い空』みたいな紋切り型の表現を使ってはいけない」という文章指南を見かけたが、平野さんの食べ物描写には、紋切り型の表現に逃げているようなゆるい部分がまったくない。自分の感じたことを、文章で正確に永久保存するのだという執念のたまものだろう。
人が何かに耽溺している様は魅力的である。しかしそれを眺めていると、偏食の自分がつまらない人間に思えてくる。というか、「平野さんのような美食家には、私のような偏食人間がものすごくつまらない存在に見えるんだろうな」みたいなことを考えるのだ。イマジナリー平野紗季子の目で、自分を貶めてしまう。
豊かで濃密な表現にうなりながら、一方で食の快楽に疎い自分をやや惨めに感じながら読み進めていた私は、しかし「味のホーム&アウェイ」のコラムでにわかに姿勢が前のめりになった。
私も!
読んだ瞬間、心の中の太字で叫んでいた。
私も、どら焼きの餡を剥がすタイプだ。皮が好きで、少しだけ餡をつけた皮だけ無限に食べられたら、とよく夢想している。まさかこの私と平野紗季子との間に、こんな共通点があったとは。
ちょろい人間なので、このコラムを機に、一気に文章を飲み込みやすくなった。
そうなのか。偏食人間しかやらないだろうと思っていたような選り好みを、彼女のような人もすることがあるのか。
美食家だろうと偏食家だろうと、そこは自由なのだ、と思うと嬉しかった(食べ物を粗末にする類の行動は平野さんは絶対しないと思うし、私も極力やりませんが)。
そうやって、少しリラックスして読み進めていくうちに気付かされる。私の狭い食の世界の中にも、食べ物に対する洞察はたしかにあるのだと。
私が世界を理解するための主な手段は、きっと食べものではないと思う。ただ私の人生にも、食べものを通して世界を理解する瞬間はある。あったことを、本書を読んで思い出した。
うつ状態だった頃にしょっちゅう食べに行ったキーマカレーの滋味と、そこの店主夫妻の優しさのこと。
執筆仕事の合間に通った沖縄料理屋のゴーヤチャンプルーが、いつもがつんと脳みそを目覚めさせてくれていたこと。
家の近くの珈琲館が、私に与えてくれていた内省の時間のこと。
食の思い出が、それぞれに独自の匂いや手触りを持って、自分の中にかすかに残っている。その価値は私しか知らない。どこにも残っていない。私が書き留めなければあとかたもなく消える、それが食べもののもたらす喜びの儚さであり、素晴らしさでもあるのだ。
平野さんが10歳で理解していたことに、今更気づく私である。
偏食家の私に、食べ物について語ることはできないと長らく思い込んでいた。でも、たまには何か言葉にしてもいいかもしれない。
今年の秋は、もう少し食に貪欲になってみるか。
本書を読み終えて、珍しくそう思ったのだった。
読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。