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【漫画】歩き始めた子どもが、私に教えてくれること

まだまだそんな気配はないと思っていたのに、突然子どもが立ったり歩いたりの猛練習を始めてビビっている今日この頃。

(完)

いやはや、子どもってすごいですね。

とにかくこっちを疑わない。だから全面的に身を投げ出してくる。それができるからこそ、何百回でも平気で失敗しながら猛スピードで成長する(発達や成長の形はもちろんひとそれぞれで、いろんなケースがありますが)。
 

重要なのが、赤ん坊って、別に最初から親を「信頼している」わけではないんですよね。ただただ「疑わない」だけ。

信頼するとかしないとかいった分岐、選択が、赤子にはほとんどない。うちの子はもう1歳なので、ある程度育っていると思うけれど。

ともあれ、その「何もない」状態を科学的にではなく感情的に表現するのに便利なのが、「子どもは無条件に親を愛している」とか「100%信頼している」とかいった表現なんだということが、育児をしているとよくわかります。

そうか、赤ん坊を育てるというのは本当に、あまたの育児書に書いてあるとおり、赤ん坊の中にゼロから信頼感情を育んでいく過程なんだ。

私の一挙手一投足、声掛けの積み重ねで、この子の幼体としての無防備さが、ほんものの信頼感情と一体になっていく。

たしかに尊い過程だけど、かなーり怖いことでもある。

そして同時に、こうも思う。


「子ども(or赤ちゃん)の頃のような、無敵の気持ちを取り戻そう」


そんなメッセージを自己啓発の世界ではよく見るけれど、大人がこの、「なんにもない疑わなさ」を目指すのはやっぱり無理がある。だって大人にはもう、たくさんの感情や思念が育っているんだから。赤ん坊のときのようなまっさらな状態には戻れないし、戻る必要もない。

というか、大人がそういう言葉の底で本当に望んでいるのは、大抵の場合は”これ”ではない気がする。

信頼することも疑うこともできる状態で、「信じる」を選ぶ・選べること。誰か、あるいは何かを信頼する自分を、大人の感受性でしっかり自覚して味わうこと。そういう状態に、私自身焦がれている気がしてならない。

信頼するって、つまり思っている以上に「大人」の領分なんですね。赤ん坊がいくら親を信頼しているように見えても、それは結果としてそう表現し得る生理的反応や行動になっているだけで、「親だから信頼しますよ」と思っているわけではない。当たり前のことだけど。


大人が何かを信頼したいと思うなら、「私を信頼させろ」と思うだけではなくてそれを「選ぶ」必要がある。「選ぶ」力を我々は持っているし、今持っていない気がしている人の中にもきっとある。

それが、赤ん坊にはない大人の尊さだと私は思いたい。

じわじわと大人に近づいていく子どもの様子から教わることは、まだまだたくさんありそうです。


「限界ギリギリの三井を支えているのは——自分のために赤木がスクリーンをかけてくれる…その一瞬を逃さず宮城がパスをくれるはず…落ちても桜木がリバウンドをとってくれるはずという信頼——奴は今、赤んぼのように味方を信頼しきる事でなんとか支えられている………」 

『スラムダンク』 第28巻

うーん、赤ん坊のように仲間を信頼した三井は偉かったな。


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