Prolegomena_V_4_20230108
今回の投稿で私が何をしようとしているか、一言で言えば翻訳、しかしこの作業にも手順はあるのだし、その過程ごとに思うことも色々とあるのである。そして、このような過程で翻訳者の頭に浮かぶものを私は見てみたいと思うゆえ、敢えて私は己の浅学を晒す恥を承知でフォーマット化した翻訳手順をここに提示することで、これを読んで触発された者が、各々の翻訳活動において、完成させた訳文だけでなく、そこに至った道をも示していただけるようになる動機の種を提供できることを期待している。そうしてこのことが実現されれば、私のささやかな知識欲は十分に満たされるのであるし、さらに私自身が俎上に上げたものに対して誤りや気づきの指摘などいただけようものなら、それは私の以後の活動においてこの上なく有益なものとなることは必定なのである。
エゴに満ちた前置きはさておき、本題。
原文
今回扱うのは上記タイトルのテキスト。(詳細は引用基に埋め込みのリンク参照 以下参照時は『Prolegomena』と表記)
単語訳
jeden あらゆる
künftigen<künftigのf.s.3格(不定冠詞混合変化) 今後の
als (英)as
Wissenschaft 学問
auftreten 現れる (tretenは「歩む、歩み出る」の意。auf(上へ)との分離動詞化で、「ステージ上へ一歩踏み出す」ようなイメージか。)
構造分析
③は関係代名詞
部分訳
①プロレゴメナ(序論)
②将来のあらゆる形而上学に向けた
③それ(形而上学)は学として現れうるであろう
全体訳
「学として現れうるであろう将来のあらゆる形而上学に向けたプロレゴメナ」
手本訳
ということで私のやろうとしている事はそれとなく伝わると思う。改めてフォーマットを示しておくと、以下のとおりとなる。
原文:言わずもがな原文。私が示すものの多くは独文であるのだが、このフォーマットは、いずれの言語についても有効に機能するものであることを確信している。
単語訳:これは一番面倒だけれども、扱われる言語を知らない人には最も必要、アウトリーチの願いも込めて置くものとする。
構造分析:手書きのノートには矢印やらスラッシュやら適当に書き込むのだが、ワープロ打ちで如何様に表現するかが悩まれるところ。しかし、訳作成の骨を示すこともやはり必要。
部分訳:全体訳に向けて準備等。一文がひたすら長いことも多々あるので(特にカント!)、ワンクッション。
全体訳:ここまでの作業が分析的であるとすれば、ここは綜合的な作業である。作品のつもりで書く。
手本訳:自分の訳がどれほど妥当性を持つのか、検証。
冒頭でも述べたとおり、今回の投稿に触発された方がいれば、このフォーマットあるいはそれに類するものを使って各々の翻訳活動の成果及びその過程を披露してくれると嬉しい。
以下では、上記テキストの「序文 第4パラグラフ(全5文)」の第2文目までを扱う。
第1文
原文
カントがこのプロレゴメナを著した意図と共に投げかけた問いーー「いったい形而上学のようなものは可能であるのかどうか」に続く段落の導入部。この分と次の第2文は疑問形となっている。
単語訳
wie (英)how
andre 他の
allgemeinen<allgemeinのp.3格(無冠詞強変化) 一般に
daurenden辞書になし dauernd(絶えず、常に)と同じか。
Beifall 拍手、賛成、称賛
構造分析
部分訳
①それ(=形而上学)は学なのだろうか?
②それ(③)が来るような→〜となるような
③普遍的で絶え間ない称賛において、それ自身存立しえない(こと)
④他の学のようには
全体訳
「形而上学とは、それ自身であまねく絶え間ない称賛のもとに、他の学問のようには、樹立できないものとなってしまうような学問なのだろうか?」
手本訳
手本訳の「もし〜なら、どうしてだろうか」は意訳で尚且つ、形而上学の存在意義というものに対して懐疑的なスタンスを維持している雰囲気があります。原文の疑問形は、反語のようにも読めそうですが……。
第2文
原文
単語訳
keine (英)no
Scheine 手形
unaufhörlich 絶えず
groß 大きい
tut<tunの3.s.現 する
menschenlichen 人間の
Verstand 悟性
niemals 決して〜ない
erlöschenden辞書になし erloschen(消える、鎮火する)と同じか。
erfüllten<erfüllen(満たす)の3.s.過など活用形ではあるが、上の動詞と並列で使われているところを見ると形容詞化されているのか?
Hoffnungen<Hoffnungの複 希望
hinhält<hinhaltenのsubordinate-clause(副詞句的に使うらしい) 差し出す (haltenは「持つ」、hin↔︎herで彼岸↔︎此岸のイメージ。)
構造分析
サブの文が続くので、各コンマ前の動詞で切ってみようと思ったのですが(③の"tut," 、⑤の"erlöschenden, "、④の"hinhält")、そうすると⑤のmitが受ける句がなくなっちゃうんですね。そういう意味で⑤の", aber"の役割を見抜くのは難しいなと思いました。これを見抜くことができれば、④のundは"tut und hinhält"の並列を浮かび上がらせてくれます。
部分訳
①それは……ではないのだろうか?
②そこ(③、④)へ至るような
③それは、手形(※2)のもとで、学に対し絶えず大きくことをなす(※3)
※1 dochは語手の主観が入って意味を強めるイメージらしい、とりあえず置いておく
※2 Scheine手形 では意味がはっきりしない気が。水戸黄門の印籠のようなイメージで、例えば「特別の許可を持って」みたいに訳してみる
※3 tutする もまた意味が薄い気が。目的語"einer Wissenschaft"が3格(与格)であることから、これを間接目的語のようにみて「学に対し奉仕する」としてみてはどうか?
④そして人間悟性を差し出す
※4 "den menschlichen Verstand"は4格(対格)であることから「形而上学が学問に対し人間悟性を差し出す(あるいは他の学問がそうしているのだから形而上学もそうすべき)」という構図も少し見える
⑤決して消える事はないがしかし、満たされることもない希望とともに
全体訳
「またそれは、ある特別の許可を持って学問にたえず奉仕し、決して消えはしないがしかし満たされることのない希望とともに、人間悟性を差し出すところへ至るようなものではないのだろうか?」
前文の雰囲気に合わせて、「形而上学の他の学が当たり前にやっていることが、形而上学に当てはまらないのはおかしい!他の学はきちんと人間の知恵に貢献しているし、人間悟性を差し出すのにふさわしいものだ!」というカント先生のお気持ちを汲みつつ訳してみました。
手本訳
手本はtutを振る舞いとしての動作で訳したのですね。そしてhinhältの訳も私のものとはちょっと雰囲気が違っています。
あとは、やはりこの文でも、形而上学に対する否定的(役に立っていないくせに、偉そうに振る舞ってきたのはけしからん!みたいな)態度を感じますが、しかしカント先生の形而上学に対する確信は反映してもいいのではないかと思ってしまいます……。
以上試験的にやってみました。冒頭にも述べたとおり、誤りや気づきの指摘は絶賛募集中ですし、フォーマットも著作権フリーです(笑)ので良ければどんどん使ってください。
また、今回扱った段落の残り3文も手書きのメモは作成済みです。気が向けばまた投稿します。
🦚以上🦚
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