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実験的連続投稿 #2

(承前)

 第一の問いに対する1つ目の事例として、私は数学を挙げよう。数学とは明証的にことがらを説明する極めて優れた手段である。その昔、プラトンが私設した学園の門前に「幾何学を知らぬもの、くぐるべからず」[1] と掲げ、哲学を修める者に数学的認識を前提として要求したことは有名な話である。あるいはまたペンローズ氏が主張することには、物質的世界は「プラトン的世界の小さな部分」である数学によって全体を原理的に記述できるということである。[2]
 彼らの言葉から分かるのは、この世界に成立することがらをあえて精神と物質に二分したとしても、数学はいずれの領域においてあってあまりある役を果たすということである。そして現に私は数学をこういうものとして用いている。しかし私はここに数学を「見るべきものを見ずして済ませる」側面を持ったものであるとして批判するつもりである。ただしこれは数学を哲学的手段として賞揚しうると考えていたかつての私自身に対する自己批判である、つまりその対象とは基本的には私自身であり、膨大な学的体系のうち私自身に身体化されたごく一部の道具的数学がそれである。したがってこの批判は学問としての数学およびその発展・研究に計り知れない努力と労を捧げる古今東西の賢人たちに向けたものではないし、これらの権威とそれが集める尊敬を些かも減ずる意図はないことを留保しておきたい。(しかし、数学、哲学及びそのほか学と称しうるすべての営みに対し敢えて不法をおかし、不敬をはたらくものに対してはこの限りではない。)

 さて、数学が持つ「見るべきものを見ずして済ませる」側面とは何か。これには2つの側面がある。第一はこの学の体系そのものに関するものであり、第二はこの学の対象に関するものである。
 数学という学問体系とは、定義・公準の上に成立する定理の集合である。定理はひとたび証明されれば、以後はその結果だけを用いて次の証明に用いられるものである。この性格は数学という学におけるまさに強みとも言えるもので、高度に一般化された定理は、人間の認識能力を超えた領域での形式的直観の可能性を与えうる。虚数というものが、「数」のカテゴリーに属するものでありながらもはや単純に「数えうる」ものではないが、代数的に多分な示唆を含んでいる、ということはこのことの格好の例であろう。しかし、数学的定理が提示しているのは哲学的認識の全てではない。ヘーゲルはこう言う。

数学的認識にあって、たとえば補助線を引く必要を見とおすことは、ことがらにとって外的なはたらきである。ここから帰結するところは、真に問題であることがらがその認識をつうじて変更されてしまうということである。

[3]

 例えば、ピタゴラスの定理には幾多もの証明方法がありながら、その証明の過程において引かれた補助線、分割された三角形、再構成された長方形ないし正方形は、「直角三角形における斜辺の平方は、直角を挟む二辺をそれぞれ平方したものの和に等しい」という命題には全く姿を現さない。つまりこれらは、要求する認識に対して「外的」であり、「見えないもの」なのである。哲学の問題においても似たようなことがないわけではない。例えばカントの批判哲学を持ってきて、合理論も経験論もなかったことにしてしまう、というようなことは、常に誘惑としてつきまとう。数学の公式丸暗記や古典不要論と同様、これもやはり健全なこととは言えない。しかし、では過程的なもの全てに目配せをしながら果たして何が語りうるものなのか(或いは語ることが許されるのか)という問題は別途考えなければならない問題であろうが、これについては本稿の目的を逸脱するため割愛する。

To Be Continued……


 [1] 『Wikipedia』(アクセス日:2023/12/17)

 [2]ロジャー・ペンローズ『心は量子で語れるか 21世紀物理の進むべき道をさぐる』(中村和彦 訳)ブルーバックス p.30-31, 153-156

 [3]ヘーゲル『精神現象学』(上)(熊野純彦 訳)ちくま学芸文庫 p.74

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