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観たもの|池田亮司×Eklekto 『music for percussion』

KYOTO EXPERIMENT2017 の感想。
まずは、池田亮司×Eklekto 『music for percussion』の感想/考察レポート。
順序ばらばら。書ける状態になった作品からつらつらと書く。

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2017/10/24(水)19:30~ (1公演のみ)
池田亮司×Eklekto 『music for percussion』 
@ロームシアター京都 サウスホール

(トップの写真はKYOTO EXPERIMENT 公式WEBサイトから。
池田亮司×Eklekto『music for percussion』 ©Raphaëlle Mueller)
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昨年のKYOTO EXPERIMENT2016では、過去4作品の連続上演と新作の野外インスタレーション作品の発表を行った池田亮司。

野澤にとって、池田亮司作品といえば
・ダムタイプの音楽を担当している
・電子音、信号音で作品を形作っている
・連続した早いリズムと、カウント音、カウントダウンしている様な音
・緩急の変化が予測不可能
・音がでかくて内臓まで音がガンガンくる
・映像は、数字や線が多用されていて、図形美がある
・ビジュアル、受ける印象は黒い。色彩色鮮やか、ではないかな〜。
以上7点の印象を持っている。

そもそも、池田亮司作品=電子・信号音表現 と思う(思い込んでいた)人間にとっては、完全アコースティックで池田作品が発表されるということ自体、かなり意表を突かれる出来事であっただろう。野澤もその一人です。

今回上演された『music for percussion』は、4部構成の作品。
1部は、ハンドクラップ(2奏者)
2部は、トライアングル(2奏者)
3部は、クロテイルを弓弾き(2奏者)
4部は、サスペンデッドシンバル(12台を4奏者で演奏)
だった。ハンドクラップ以外は、全部金属楽器。

上演時間中は、息を呑むばかりで、咳、くしゃみ、息音、鼻水音、お腹の音、などなど、ほんの些細な音が気になる空気感。観客側が猛烈に緊張する公演だったことは間違いないだろう。
内臓に音がガンガンくる、なんてことはなくて、特に後半の3曲は、耳を澄ませて澄ませて聴かないと聴きこぼしてしまう、金属の繊細で柔らかい響きを多用した曲だった。

さて、どんどん作品が大きくなっていく印象を受けたのは、楽器の大きさと奏者が増えるに伴って、響きが大きくなっていくからだと思う。
けど、どうやらそれだけではないと思ったので、考察するぞう。

アコースティックは、作者を裸にする。

今回アコースティックという表現手法となったことで、特記すべき点は、池田の作品を池田本人でない誰かが「演奏」するというレイヤーが加わったところにあるだろう。

これまで、池田は、自らが整えたPC環境上で、創作をしているはずだ。
その創作環境には、バーチャルな空間は広がっているはずだけど、基本的には閉じた環境であるだろう。
一方今回、池田作品は、バーチャルな閉じた環境から、リアルで開かれた環境に出てきた。手にとって確認できるリアルな「モノ」を媒介して、私たちの耳に池田作品が響いてきたのである。

私は特に、奏者側つまりEklektoのメンバーは、一体どんな感覚を覚えてパフォーマンスしていたのだろうか、という、奏者側の感覚について底知れない興味がある。
ひたすらにトリル。
楽器という他者と、池田亮司という他者の両者とどんなコミュニケーションを図っているのだろう。
「演奏」することが、一この場に置いて一体何を意味していたのだろう。

また、池田亮司は電子音楽だろうがアコースティックだろうが関係なく池田亮司なのだ、ということが大きな発見だった。私は「アコースティックだから」という理由で、これまでの池田亮司作品とは全く違ったものを観ることだろうとどこかで予測していた。
しかし、その予測は全くもって外れていた。複雑に絡み合う信号的なリズムは特徴的に表れていたし、予測できない緩急の繰り返しは、聴いている私の呼吸を乱した。
電子音だと、息苦しくなるぐらいの重低音や、聞き苦しい高音域、聴くことのできない周波数が流れていたりして、作品の全容を把握しきれないことが多い。しかし、今回は、自分の身体感覚の許容範囲内で聴けた。池田亮司の音楽的な「芯」を、自分の耳で確かに聴き取った感じ。

Eklektoのこと

今回池田とコラボレーションしたEklektoは、スイスの打楽器アンサンブル集団である。上でも述べたが、今回の公演の要はEklektoが池田の作品に介在しているところにある、と私は感じている。
帰宅してEklektoをググってみると、かっこいいHPにたどり着く。
(しかし、全部フランス語で書いてあって詳細が読めない泣 Google翻訳で日本語に訳して解読してみる。)

Eklektoは、1974年にジュネーブで設立されたコンテンポラリーなパーカッション集団です。さまざまな次元のアンサンブルは、室内楽コンサート、インスタレーション・パフォーマンス、マルチメディア・イベントなど、あらゆる形の研究を中心に、作曲家や現代アーティストと密接に協力している約20人のパーカッショニストから構成されています。
(Eklekto  À PROPOS Google翻訳そのまま)

「約20人のパーカッショニストから構成されています」とのことだから、どうやら、今回の公演に出演したのはEklektoの一部のメンバーであったようだ。

また、自らが主催となり、パーカッションを軸にした音楽イベントも開催している模様。そしてその告知チラシ(ポスター?)のグラフィックデザインがとんでもなくかっこいい。何ですか!!これは!!??
洗練されていて絵になる。額装して部屋に飾っておきたいぐらい!

例えばこれ。

加えて、Eklektoは、自ら(im)pulseというジャーナルを出版している模様。
フリーペーパーの形態をとっている様で、今回の池田亮司公演でもこそっと配布されていたので、すかさずゲットしました。
こちらのPDFデータはHPにアップロードされています。こちらから。

かっこいいな〜 ちなみにオレンジの2号目には、池田亮司の公演についても書いてある様でした。なにせフランス語だから読めない泣 せめて英語だったらなあ....
こうやって、インディペンデントなプレイヤー集団が自ら情報を発信する、というところに憧れる。なにせこんなにかっこいいジャーナルを作れるんだから、常に「演奏の向こう側」を考えて活動しているんだろうなあ。いつか話を聞いてみたい。

池田亮司の音楽の「芯」に触れつつ、海外演奏家集団の活動内容に強い憧れを抱いたのでした。

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おまけ。
YoutubeでEklektoのアカウントを発見。こちらの動画を観てみる。


どうでもいいけど、これ観て「となりの関くん」のEDを思い出した。

おわり。






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