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「most like」シアタースコラ 演劇の学校

シアタースコラ 2024年3月4日~7日
 
シーンスタディ
テキストはハロルド・ピンターの「夜」
 
ハロルド・ピンター 1930-2008
イギリス ハックニーで生まれる(ロンドンから電車で20~30分のロンドン東部)
一人っ子。クリケットが大好き。両親はユダヤ系。ハロルドはユダヤ教徒ではない。生まれたハックニー地区は、当時労働者階級が多かった(ユダヤ系、アイルランド系が多い)。両親とは仲良し。
 
幼少期~青年期
学校の演劇の授業でシェイクルピアのマクベスやロメオを演じたことがきっかけで、文学や演劇に夢中になる。
第二次世界大戦中The Bilitzを避けるため、コンウォール(イギリス西部)やレビングに疎開。両親がたまに訪れると、別れるときは泣く少年だったという。ユダヤ教の家に生まれたことと併せて、疎開の経験が作家としての生きざまに影響を与えたと言われている。
 
演劇学校へ
戦後1948年 王立演劇学校(RADA)ロンドンに入学。学校へはろくに通わず退学、俳優としての自信もなくしたが、地方都市を巡業する劇団で俳優活動を始める。
1948年「良心的兵役拒否」を行う。申請はかなりの割合で拒否され、多くの人は徴兵を選択した。ピンターも申請を拒否されたが、罰金刑で実行。少数派であった。
 
俳優活動と結婚
1951年~52年 俳優としてアイルランドを巡業
1953年 シェイクスピア俳優のDonald Wolfitの主催する劇団で俳優として活
    動。Wolfitはピンターを信用していた。
1956年 共演したヴィヴィアン・マーチャントと結婚。当時、売れっ子女優
    であった。 
 
劇作家へ
1957年(26歳~27歳)
地元仲間のヘンリー・ウルフ(ブリストル大学の演劇学科)に「芝居を書いてみないか」と依頼をうける。「The Room」を書く。それ以降、劇作家に転身(映画の脚本も書いた)。
デビューした頃は劇場検閲法が存在し、直接的性的表現などが禁止されていた(1968年廃止)。
ベケット(1906-1989)の影響を大きく受けた。
1965年初演の「帰郷」から、ベケットに原稿を送り、アドバイスをもらっていた。大好きだった。
ブレヒトの起承転結や政治性、社会について(戦後の割り切れないもの、言葉で説明しきれないもの)、ベケットの不条理の影響を受けている。
 
「夜」 1969年 作
登場人物 男と女
劇場検閲法が1968年に廃止され、廃止された翌年の作品
これまで禁止されていた言葉や趣をふんだんに使ったスタイル
 
以下のようなことを意識してやった。
・作家や時代背景について調べる
・気持ちをのせて何通りも読んでみる
・脚本とキャラクターをたたせる
・キャラクターがそこに立っていればよい
・キャラクターの体になっているか、どこに重心があるのか、力まずそこに
 いること
・聞こえなきゃいけないことと聞こえなくていいこと
・どうしたら「活きたもの」になるのか
・キャラクターは?
・関係性は?
 
聞こえなきゃいけないことと聞こえなくていいことは、早口言葉を使って練習もした。
物語の人も日常にいる人たちでその延長線上にいる人ということ。
言葉で表せない重要性がある。その経験をおこない、かつコントロールもしながら、その状況を楽しむ。
’Play with’ 
とことんやると、自分自身のことも知れて、築けている手ごたえがあって楽しい。
 
正しいは一つじゃない
自分の正しいことも一つじゃない
全力でやらないとうまくいっているかわからない
リスクも生じるが、色々試して一番好きなのを選択しよう!
Scene study is actors play ground experimental.
There is serious game as children play. (by ゴーリエ)
What is 〇〇〇 potentialiy?
What is 〇〇〇 possiblly?
Is it alive?
How could you make it(then)alive?
What is your choice?
Which one do we like the most?
 
前にスルーしたことってまたどこかで巡り合うなって思った。早口言葉がそれだ。きっと何かしら消化することが自分にとって必要なんだと思うからやってみようと思う。
そして、やはり人と共有すると、わかることもみえることもその分肥大する。そんなことを再認識できる時間だった。
尊敬しあえて繋がってるっていいなって思う。
それがわたしの ‘most like’ なのだ。