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イカズゴケ苔 (短編小説)

イカズゴケ苔
いかずごけごけ【イカズゴケ苔】
 コケ科
初潮を迎えた娘の脇に発生する苔。
摂取すると多幸感や開放感をもたらし、幻覚・興奮を来す。

初潮を迎えた娘のためにお赤飯を蒸している最中、悲鳴が聞こえてきたので慌てて駆けつけてみたならば、駒子が風呂場の鏡に両脇を映したまま、呆然と立ち尽くしていた。

駒子の脇に、初々しい緑の苔が遠慮がちに生えているのを確認するやいなや、母親であるわたしは、相反する二つの思いを抱き、つまりは石からしみだす油みたいな同僚のいるクリーニング店でのパートを辞められるという喜びと、娘が嫁にいけなくなるという憂いが同時に押し寄せてきたのでした。
けれども駒子の目に涙が浮かんでいるのに気づいてしまうと、ここはやはり憂いに集中すべきだと思い直し、眉を八の字にして娘の肩に手を置いた。

駒子に温かい牛乳を飲ませ、ベッドに寝かせた。台所に戻ると、蒸し上がったばかりのお赤飯を一つまみ口に入れ、月の力に満ち満ちた娘の初潮とイカズゴケ苔発生を一人祝う。そんなわたしの両目には、窓の向こうの月明かりに舞う桜の花びらが映っていた。

翌朝、上階からの物音で目覚めた。安普請の家なので、ちょっとした物音でも家中に響く。音は娘の部屋から聞こえていた。胸騒ぎを覚え急いで階段を上り、扉を開けてみたならば、駒子が、転がる女になっていた。

勉強机の上には、ことわざ辞典が開いたまま置いてあり、マーカーで線引きされたことわざは『転がる石には苔が生えぬ』。

わたしは転がる駒子を黙って見守った。狭い部屋の中で転がる娘は、壁やベッドや本棚などあらゆる物にぶつかっているのに、決して転がることを止めず、その後も小一時間転がり続け、わたしの足にぶつかった途端、ようやく停止した。

カラダの丸まりをほどき伸びをした駒子が、わたしに向かって両腕を上げた。娘の両脇を確認したものの、そこには鈍(にび)色(いろ)のイカズゴケ苔が、しっかり根付いているのでした。

「転がる娘にも苔は生える」

わたしはそういうと、そっとその場を立ち去った。

そう、現実は受け入れなければならず、駒子にはそうするための時間が必要だった。娘を一人家に残し、わたしは図書館にいき、イカズゴケ苔について調べてみたところ、日本在来の植物であると思っていたイカズゴケ苔が、実は帰化植物で、百年程前に東南アジアの商人から持ち込まれたものだと知った。

刻々と色を変えるこの苔を、当時の盆栽愛好家らが珍しがって手に入れたが、イカズゴケ苔は日本の地ではうまく育たなかったため放置された。
しかしある愛好家の娘が、庭の隅に捨て置かれていたイカズゴケ苔を、面白半分に自分の脇にのせて遊んでいたところ、そのまま根付いてしまった。根付いた苔から飛び出した胞子は、風にのり気ままに日本中を旅し、なぜか初潮を迎えた娘たちの脇に生えるようになった。

本来の生育地では野山に生えるイカズゴケ苔が、なぜ日本ではうら若き娘の脇にしか着床しないのだろうかと、植物学者たちは首を捻ったが、理由は分からぬまま現在に至る。

当時から脇にコケを生やした娘を嫁にしたがる者はおらず、そうした娘たちは生涯独り身でいることを余儀なくされた。しかしどの時代にも好き者はいるものである。そうした娘を好み、脇に生えた苔を舐めた男がいた。
するとその男はたちまち気分が高揚し、万能感に満ちて神を見たと触れ回ったものだから、それを聞いたまた別の好き者が娘の苔を舐めたところ、やはり同じ体験をしたため、その噂はますます広まり、やがて人々はそうした娘たちを神として祀るようになった。

そして。

神とされた娘たちは、いよいよ嫁にはいけなくなった。いくら好き者でも、神と結婚するなどというそんな畏れ多いことのできる男はいなかった。
人々は娘の脇に生えた苔のことを、イカズゴケ苔と呼び崇めた。誰もがイカズゴケ苔を欲しがった。

苔は合法であるのだし、依存性や害がないうえに、多幸感を味わえて、美しい幻影を見ることができる。こんな素敵な物質は、他にはない。今も昔も。
図書館からの帰り道、今後の駒子の人生について思いを巡らせた。イカズゴケ苔が生えたという噂は、どういうわけだか、あっという間に広まってしまうものだ。

しかしながら、今のところ駒子が自分から誰かに告白することもないだろうし、わたしもこのことを胸の内だけに秘めている。夫にだって話してはいない。

駒子とわたし以外、誰も知らない。誰も知らないはず。内密に。内密にと、抜き足差し足で家に辿り着いたならば、玄関先に金の玉座が置かれていた。
これが噂に聞くイカズゴケ苔が生えた娘に国から贈られる金の玉座。

わたしは周囲を見回して誰にも見られていないのを確認すると、玉座を家の中に入れるために玄関の扉を開けた。するとそこには仕事に行っていたはずの夫が満面の笑みで立っていて、「会社を退職してきたよ」と朗らかにいった。

彼を蹴とばしてやろうかと思ったけれど、ひとまず今は玉座を家の中に入れるほうが急がれる。わたしたちは玉座をリビングに運び込んだ。玉座は我が家にはそぐわず、安物の家具に囲まれながら、スノッブに輝いていた。
しばらくすると、夫が玉座に座り部屋の中をぐるりと眺めた後に、白目になり、まるで神託を受けたようにしゃべりはじめた。

「名を駒子と申すわたくしの娘は、本日よりイガズゴケ苔の神として、ここに鎮座することに相成り候。よってこの部屋を『イカズゴケ苔の間』と、また娘のことは『イカズゴケ苔様』とお呼びするよぅに~」

ついにわたしは夫に蹴りをいれ、玉座から引きずり下ろし、馬乗りになって彼の残り少ない髪の毛を引っこ抜いていたところ、後ろから駒子の声が聞こえてきた。

「おやめください。お父様、お母様。わたくしは本日よりイカズゴケ苔と名を改め、人々のために尽力いたします」

自分の娘であったはずの駒子が、天(てん)上人(じょうびと)となり手の届かないところへいってしまう気がしたものの、見えないものに導かれるように、わたしと夫は後光を放つ駒子の前に跪(ひざまず)き、口を開けた。駒子が腕を上げ、脇に生えた金の苔をつまみ取り、わたしたちの口に入れた。

たちまちのうちにわたしは多幸感を味わい、夫と手を取り合って、イカズゴケ苔様をお支えすると誓ったのでした。それは結婚式での誓いよりも神聖で大いなる愛に包まれていて、すなわちわたしは、神を見ていた。


朝、目覚め、窓から外を確認する。家の前には行列が出来ているが、こうした光景にすっかり慣れてしまったわたしは、特に驚くことはなく、いつも通りに朝食の準備をする。昨日、参拝者から奉納された烏骨鶏の卵をかけたご飯と味噌汁は、わたしたち夫婦用。イカズゴケ苔様にはタイ風のオムレツを用意する。

イカズゴケ苔様になってしまった彼女は、それまで一度もタイ料理など食べたこともなかったのに、突如そうした料理を好むようになった。

苔の本来の生育地がタイの辺りに位置していたからだろうか。土壌は苔の祖国に似せたほうがよいだろうと、わたしはレシピ本を買い揃え、ナンプラーやスイートチリ、パクチーやココナツミルクなどを常備して、食べたこともないタイの料理をせっせと作るようになった。

確かにタイ料理を食べるとイカズゴケ苔はよく育った。参拝者に苔を分け与えても日々色を変え生え続け、苔むしながら人々を幸せに浸(ひた)らせた。

一方、本来の生育地で育つイカズゴケ苔は、食したところで妙薬にも媚薬にもならず、みなを喜ばせる効能はないという。この国の初潮を迎えた娘たちの脇に生えることでのみ、イカズゴケ苔は力を発揮するのだ。それゆえイカズゴケ苔様のイカズゴケ苔は貴重だった。

現在、この国のイカズゴケ苔様は八十八柱(はしら)で、この数は近年変化せず、一柱消えれば、また新たな一柱が生まれるという具合。全国八十八カ所イカズゴケ苔様巡礼は、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)を問わず人気だった。

わたしはすでにパートを辞め、ご存知の通り夫はすでに会社を退職、つまりわたしたちは無職でありながら、生活はひどく潤っていた。それもすべてはイカズゴケ苔様のおかげ。

参拝者より奉納される物品でわたしたちは家を建て替え、安物の家具を一新し、イカズゴケ苔様にふさわしい『イカズゴケ苔の間』を構えていた。大理石の床に置かれた金の玉座に座るイカズゴケ苔様は、自分の腹を痛めて産んだ子とは到底思えなかった。誇らしかった。わたしは神を産んだのだ。

わたしはイカズゴケ苔様にすべてを捧げた。霧吹きで苔を湿らせ、室温を保つ。イカズゴケ苔様がいつも美しくいられるよう、髪を結い上げ、化粧を施す。参拝者が帰った後には全身をマッサージし、カラダを潤す薬草茶を用意した。けれどもわたしは自分の仕事にどこか満足していなかった。もっとできる。もっとイカズゴケ苔様の力になれる。

そうした思いは日に日に強まっていき、夜も眠れなくなっていった。こんな時は、イカズゴケ苔!と摂取するが、多幸感は一時的なもので、永遠には続かない。わたしはよほどひどい顔をしていたのだろう。

雪降るある朝のことだった。

「今日はこんな天気だし、参拝者もそれほど多くはないだろう。久々にゆっくり出掛けてきたらどうだい」

夫に優しい言葉を掛けられたことなど、これまで数えるほどしかなかったから、これは何か裏があると思った。わたしのいないうちにイカズゴケ苔様を一人占めし、悪巧みを考えているのでは。
例えばイカズゴケ苔をごっそり刈り取り、密売人に売り捌くとか。だから、わたしはつっけんどんにこう答えた。

「結構です」

すると今度はイカズゴケ苔様が口を開いた。

「お母様、わたくしは大丈夫ですから、お父様のいう通り、お出掛けになってくださいませ」

イカズゴケ苔様のお言葉を無下に扱うこともできないため、わたしはわざと時間を掛けて支度して、昼前には渋々家を出た。散歩には適さない雪の舞うなか、ゆく当てもなくご近所を歩いてみる。

イカズゴケ苔様のお世話をするようになってから、家を出ることはほとんどなかったので、近所を歩いているだけなのに、知らない町にきたように思う。次第に旅情を感じはじめ、駅前の平井商店街まで足を延ばす。

商店街にはあちらこちらに横断幕や垂れ幕が張られており『イカズゴケ苔商店街へようこそ』と書かれている。平井という言葉はどこにもなく、知らぬ間にここはイカズゴケ苔商店街と名を変えていた。

イカズゴケ苔様のおかげか、こんな雪の日でも商店街は賑わっている。名を変えても並ぶ商店は見覚えのあるものばかりで、マダムイクコのおしゃれ着店も、マダムトシコの普段着店も健在で、焼き鳥爺嗅(やきゅう)犬(けん)からはタレの香ばしい匂いが漂っていた。

その匂いを嗅ぐと急にお腹が空いてきて、では久々に焼き鳥を食べようと爺嗅犬の暖簾をくぐろうとしたちょうどその時、数軒先のお店に長蛇の列が出来ているのに気が付いた。わたしはその店に向かって歩き出した。以前にはなかった新しい店だ。

看板には『イカズゴケ苔@the_ya_thai』と長たらしい文字が書かれていた。
開け放たれた店の入り口からは、パクチーやナンプラーの匂いが漂っていて、そこは間違いなくタイ料理の店のようだ。

ほほう、こんな田舎町にもついにタイ料理のようなしゃれた異国の店ができたのだなあと、これもすべてはイカズゴケ苔様のおかげだあ~ありがたやあ~ありがたやあ~と両手を合わせて目を閉じて、列の最後尾に並んだ。

毎日、イカズゴケ苔様のためにタイ料理を作っているというのに、わたしはこれまで他人が作ったタイ料理を食べたことがなかったし、正直なところ、作っているくせにこの異国の料理が苦手だった。

一組出てはまた一組、店の中へと入っていく。お会計を終えて店から出ていく人々の表情は満ち足りていて、それはイカズゴケ苔様の苔を手に入れることのできた参拝者らの顔に浮かぶものと、よく似ていた。気づけば、わたしは列の最前列にいた。

間もなく店内のテーブルに着く。メニューはそれほど多くはなく、壁に掛けられた黒板に、タイ語らしい文字のかたまりが五種類あり、小さくカタカナがふってあった。近眼のわたしは目を細め、カタカナを読みつつ言葉遊びをする。タイ料理のレシピ本を見る度についやってしまう遊びだ。

カオマンガイ 
顔が命の男だらけ

バーミーヘン 
変顔の金髪女のお人形

ガパオムーサップ 
筋肉男のすかしっぺ

ラープムー 
 新発売のコーヒークリーム

ゲーンキアオワーン 
グリーンカレーといいなはれー


「ご注文は?」

 カウンターの中の男が怪訝な顔をしてそういったので、思わず「筋肉男のすかしっぺ」と口にしてしまった。すると男は解読機能を働かせて「ガパオムーサップねー」と返事した。

カウンターの中は客席からは見えないようになっていて、確認できるのは男の顔だけだったが、彼は手際よく調理しているようだった。

 目の前に置かれた挽き肉のバジル炒めは、見るからに美味しそうで、わたしが作るそれとはあきらかに違っていた。口に入れるとその違いはさらに明白となり、猛烈な食欲が押し寄せてきた。ぺろりと一皿食べ終わると次なる注文をした。

「グリーンカレーといいなはれー」

またもや男は「ゲーンキアオワーンねー」と素早く解読した。テーブルに運ばれてきた緑のカレーは、わたしの喉に新緑の風を吹かせ、窓の向こうに広がる雪景色を忘れさせた。

おそらくわたしは他の客と同様に満ち足りた表情で店を出たのだと思う。雪は一時も止むことなく降り続き、わたしの足跡を刻むと同時に消していった。一足進む度に、わたしはイカズゴケ苔様に彼の料理を食べさせたいという思いが募り、それは消えることなどなかった。

イカズゴケ苔様をこっそり先程の店に連れていこうかと考えたが、苔を狙っている悪党どもに襲われる可能性がある。あるいは料理を持ち買ってイカズゴケ苔様に召し上がっていただくのはどうだろうかとも思うものの、やはり作り立てが一番よいに決まっている。
するとおのずと、彼を料理人として雇い入れるという選択肢が残ったのだった。こちらとしては、あの店がひと月に売り上げるだろう金額の二倍を、彼に月給として支払うことが可能だった。

家の前へと続く一本道が見えてきたが、わたしはそれに背を向けて再び商店街へ向かって歩き出し、店の前で客がいなくなるのをじっと待った。

午後四時、最後の客が店を出た。『完売しました』という張り紙を持った男が戸口に現れたので、「さわやかな湯呑み」と声を掛けた。

わたしのカラダは冷え切って、足先は感覚を失っていたが、内部は熱く燃えていた。彼は先程、カウンターで料理を作っていた男と同一人物であるらしく、得意の解読機能で「サワディーカップ」とこたえ、わたしを店の中に招き入れると、温かいコーヒーを注いでくれた。

わたしはまじまじと男を見た。これといった特徴のない外見をしていた。ほんの一瞬よそ見をしただけで、姿形を忘れてしまいそうだった。顔があるのに顔がない、姿があるのに姿がない、それが彼だった。

「なにか御用かしら?」

 男がいった。それは解読の必要のない普段使いの言葉だったので、わたしは安堵して伝えたい言葉をつるつると吐き出した。彼はわたしの言葉を飲み込み消化しつつ、腕を組み「ヒョットスルト、ヒョットスルカモ」という言葉の羅列を、唇を尖らせ何度も念仏のように唱えていた。

やがて男は「いいわよ」といった。

続いて「明日にはいくわよ」といった。

「明日?」

 そんなに早く来てくれるとは思っていなかったので、わたしは驚いて聞き返す。

「そうよ。明日にはいくわよ。わたしはイカズゴケなのよ」

 男は赤面し、なんだかよく分からない返事をした後に、名前を名乗った。
 龍児(りゅうじ)。それが男の名だった。


翌朝五時。呼び鈴がなった。
扉を開けると龍児が立っていた。
龍児の顔を見るまで、やはりわたしは彼の顔を思い出せずにいたし、この瞬間にも忘れてしまいそうだった。彼はわざと外見をぼんやりさせて、周囲との境界を曖昧にしているように思えた。 

 龍児は大きなリュックを背負っており、あちこちから鍋の柄などが飛び出していた。夫もイカズゴケ苔様も、まだ眠っている時間だった。わたしは彼を台所へ案内した。龍児はリュックから荷物を取り出し、作業台に並べていった。

すべての荷物を取り出すと、わたしを台所から追い出し「わたしが料理を作っているところを決して覗いていけません」と、恩返し好きの鶴みたいなことをいった。

 いつもならこの時間に朝食の準備をはじめるのだが、食事作りを龍児に任せてしまったため手持ち無沙汰になったわたしは、なぜだか急に歌いたいという衝動に駆られた。

 自室の窓を開けた。昨日から降り続いていた雪は止んでいて、昇りはじめた朝日が残雪に彩られた通りを優しく撫でた。家の前にはすでに参拝者が数人並んでいた。朝の空気をめいっぱい吸い込むと、わたしの喉からずんずんと歌が流れ出した。

「いかずご~けご~け。ごけ!
いかずご~けご~けを~ひとくち~でもたべた~な~りゃあ。
あたしも~あん~た~も、まるでゆ~め~のここ~ち~。
ごけごけ!タイ!ごけごけ!ずん!」

それは盆踊りが似合う民謡調の歌だった。わたしは少しづつ歌詞を変え、イカズゴケ苔音頭を歌い続けた。
やがて参拝者らが輪になって、渦を巻くように歌に合わせて踊りはじめた。雪の残る大地に増殖する精霊を見ているようだった。

「朝食の準備が整いましてよ」

龍児の声が聞こえた。
わたしは彼の作った朝食をイカズゴケ苔様の前に並べた。

「顔が命の男だらけ、でございます」
わたしがそうメニューを説明する。

「カオマンガイですね」
 イカズゴケ苔様は微笑みを浮かべてそういった。わたしと夫も、鶏スープで炊いたご飯にゆで鶏をのせたものを食べた。

これまでわたしたちはタイ料理が苦手だったから、いつもイカズゴケ苔様の食事とは別のものを用意していたのに、龍児の作るタイ料理はなんの抵抗もなく食べることができた。彼の料理を食べた後は、すこぶる気分がよくなり、あちらこちらに宿っている精霊を見ることができた。

 それからというもの龍児は毎朝五時に家に来て、三度の食事を作り、夜の七時に帰るようになった。食事作りの合間には好きに休憩を取ってもらった。

休憩中、彼は外へ出かけて数時間戻らないこともあれば、台所から一歩も外に出ないこともあった。いずれにせよ食事の時間が遅れることは一度もなく、彼は立派な仕事人だった。

一方で龍児はイカズゴケ苔様にも夫にも会おうとはしなかった。よほどうまく避けているのか、家の中で彼らにばったり遭遇することもないようだった。

夫はまだしも、イカズゴケ苔様に会いたがらない人間など、これまで見たことがなかったから新鮮だった。

「イカズゴケ苔様に会わせましょうか?」

「イカズゴケ苔欲しいでしょ?」

 他の人なら泣いて喜ぶこのフレーズを、何度となく龍児に囁いてみたが無駄だった。彼はなんの関心も示さなかった。

やがてわたしは彼をイカズゴケ苔様に引き合わすことをあきらめ、代わりに隙あらば、彼に様々な質問を投げかけるようになった。この男についていろいろ知りたくなったのだ。彼についてわたしは、いまだに名前とタイ料理の店をやっていたこと以外、なにも知らなかった。

しかし龍児はいつものらりくらりとわたしの質問をかわすので、結局、わたしは彼と食事作りに関する必要最低限の話しかできないでいた。

 彼のことをもっと知りたいという思いが募るわたしに反し、夫とイカズゴケ苔様は龍児のことを気にしていなかった。三度の食事を彼が作っていることは知っているはずなのに、彼のことが話題に上ることすらないのだった。彼らにとって龍児は、窓を開ければ入り込む風のような存在なのかもしれない。

 全国イカズゴケ苔様ランキングで一位に輝いたという知らせが入ったのは、龍児がイカズゴケ苔様の食事を作るようになってから半年ほどが経った頃だった。

 なにを基準に順位付けしているのかは謎だった。
イカズゴケ苔の効用なのか、イカズゴケ苔様の美しさなのか、あるいは立地や社殿に関わることなのか、なんの説明もされなかったせいか、わたしはその知らせを聞いてもはしゃぐことなく、むしろ不愉快な気分になってしまった。

そもそも神様にランキングを付けること自体が、失礼なことに思えた。
けれども、もしもその順位がイカズゴケ苔にだけ焦点を当てたものだとしたならば、近頃の我がイカズゴケ苔様の苔は、以前とは比べ物にならないほど苔むして、この国独自の美意識である侘び寂びを醸しだしているのも事実だった。

 龍児の料理を食べる以外に、特段これまでと変わったことをしていないので、やはりこの変化は彼の料理のおかげなのだろう。

 龍児の料理には、なにか秘密が隠されているように思えた。もとより作っているところを見てはいけないと言われれば、ますます見たくなるのが人間の性。振り向いてはいけない。開けてはいけない。そんな風に禁じられても、古今東西を問わず、人だけでなく神までもが禁忌を破ってきたものだ。

 わたしはもう我慢できなかった。彼が鼻や口、はたまたお尻から食材を取り出していようが構いはしない。

翌朝、ついにわたしは禁忌をおかす。
台所の扉をそっと開け、中を覗く。
龍児は真面目な顔付きで料理している。変わったところはなにもない。当てが外れた気がした。わたしはこの密室の中で、秘儀が行われていることを期待していたのかもしれない。

ところが、その場を立ち去ろうと扉に手を掛けた途端、彼の不可解な動きを目撃してしまう。自分の胸が高鳴っていくのが感じられた。息を殺してちょっとしたしぐさも見逃さないようにした。

龍児は着ていたシャツを脱ぎランニング姿になったならば、片手にハサミを持ち、もう片方の腕を上げ、その脇にあるものを切り、鍋の中に加えていったのだ。わたしは驚きのあまり声を上げそうになった。

龍児の脇には真っ赤なイカズゴケ苔が生えていた。

わたしは何が起こったのか理解できず、扉を閉めることも忘れ、自室に戻った。
 まるで何もなかったかのように、わたしは窓を開け、イカズゴケ苔音頭を歌った。もちろん歌いながらも、彼はどうやってイカズゴケ苔が生えていることを隠し通せたのだろうか、なぜ初潮を迎えた娘にしか生えないイカズゴケ苔が彼の脇に着床したのかなどと様々な疑問が頭に浮かぶが、そうしている最中にも、やはり龍児の姿形が思い出せず、ぼんやりと霧がかかった人影が漂っているだけだった。

 歌い終わっても龍児から朝食が出来たという知らせはなかった。嫌な予感がした。階段を下り台所の扉の前に立つ。扉はきっちり閉まっている。ノックしてみる。

 返事はない。

「開けますよ。開けますからね」

 念を押して扉を開けたが、そこに龍児の姿はなかった。もしかして、とイカズゴケ苔の間も確認するが、彼はいない。その時、部屋に置かれたイカズゴケ苔様が眠るベッドから布団がずり落ちていることに気が付いた。布団を直そうとベッドに近づいてみたところ、そこには眠っているはずのイカズゴケ苔様の姿はなく。

 刹那わたしは裸足のまま外へ飛び出した。列をなす参拝者らを押しのけ、通りへ出る。彼らの姿はどこにもない。わたしは近所を走り回る。どこかに隠れているかもしれないとあらゆる場所を探す。屋根の上、電柱の影、側溝の中も確認する。参拝者や道を行き交う人にも彼らの姿を見なかったかと尋ねる。

誰も知らない。どこにもいない。

商店街まで走る。かつて龍児の店があった場所も確認する。あの店は今ではお好み焼き屋に変わっていた。

わたしは再び走り出す。

行く当てもなく走る。走る。

真夏の威勢のいい太陽が、わたしを照らす。

走る。走る。

汗をまとい走る。走る。

走るにつれ、わたしの心は晴れ晴れしてくる。両手を上げ下げし、鳥のように羽ばたく。

羽ばたけ!駒子!
羽ばたけ!龍児!

性を変え、姿を変えても構わない。そんな些細な事はどうでもいい。生を存分に味わって、龍子(たつこ)として駒児(こまじ)として再び生きろ!

わたしは羽ばたき、そう願う。

羽ばたけ!わたし!

このままタイまで飛んでいこう。そこはここの夏より暑いだろうか?

羽ばたけ!わたし!

すべてをさらけ出してしまう太陽を全身に浴び、わたしはこの地を飛び立った。
(完)

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

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