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父と弟 わたしの家族

父と弟

ここまで書いてきたけど、あまり父と弟について書いていない。
小学生の時は、特にない。

本人たちはどう思っていようが、私は覚えていないからだ。

弟はよく「姉ちゃんは遊んでくれてた」と言うのだが、私にはあまり遊んだ記憶はない。
でも逆に、男の子だからとチヤホヤされているのを見て、嫉妬して妬んで意地悪した記憶はある。



5つ下の弟。

可愛いはずの弟。
待ちに待った「弟」のはずだった。

姉弟二人で遊ぶのが楽しみだった。
だけど結局、年の差もあるので、同じおもちゃで仲良く遊ぶのではなく、同じ聖書の本で遊び学んだ。

思っていた姉弟とは違った。

弟は性格的にも育てやすい子だったのか、ムチも私の時に比べて、そこまで酷くなかったと思う。

弟がムチをされているのを見たことあったけど、時代的に少し変化が起きていたのもあったのか、そんなに酷くなかった気がする。

でもそう思うのは、私が「年上の人の言うことをよく聞く子」だったので、
言うことを聞かない他の子供や弟が羨ましくて許せなかったのもあるんだろう。

わたしは母を弟に取られたようで寂しかった。
寂しさを埋める代わりに、ムチをされた。

私が欲しかった、親からの愛は形を変えていった。
どうしたらよいのか、もうわからなかった。


だけど、弟は「長男」だから、私が欲しかった愛を貰っていると思っていた。
だから尚更、羨んだ。


弟に手を上げていた記憶もあるので、私は「良い姉」ではなかったと思う。
わたしが小学校6年の時に弟は1年生だった。
やはり、関わることもそんなにない。
憧れていた、姉弟で仲良く登下校することもないまま終わった気がする。







父は引っ越した先でも宗教にハマる嫁子供を見てか、たまにしか帰ってこなくなっていた。

それでも私は父が好きだった。

大人になってもファザコンと言われるくらい。

でもその実は、親としての愛を与えてくれたのが彼だけだったから、だからとても好きだったんだな、と最近になってわかった。

それがわかった今でも、親戚にはファザコンと言われる。

みんな母がどのような育児をしてきたのか知らないからだ。


私は鍵っ子になった。
私と弟の年齢が上がってきたので、母がパートに出るようになったからだと思う。
記憶では弟は1年間だけ保育園に通園していた。

私を鍵っ子にしてしまうことを、母からとても申し訳なさそうに語られたのをはっきりと覚えている。

父は宗教を辞めない母に生活費を渡したくなかったんだと思う。

少しは「働く」事を覚え、社会と接することで宗教との距離を取って欲しかったのだろう。

父のそんな願いは、結局は儚く散るのだが……。



父はたまに帰ってきた。
お誕生日もクリスマスもお年玉も、信仰があるから我が家にはない。

もっと言うと、ひな祭りも鯉のぼりもお盆もバレンタインもハロウィンも本当にない。
カレンダーなんか気にもならないらしい。



だから、父もイベントごとには帰ってこなかった。
だけど、クリスマス前後は帰ってきてくれるようにしてくれていた。
よく「メリークリシミマース」とか言って笑わせてくれてた気がする。


父の職業上、「事故」て親しくしていた方が亡くなることが多かった。
喪服を取りに来てたり、たまに帰ってきても意気消沈していた記憶がある。


そんな時に永遠の命や楽園の話をして励ましてくる嫁がいて、心情的に辛かったと思う。

年末年始は3日しか一緒にいられない。
父は自営業なので、1月3日からは挨拶に来る人がいるからだ。

1月2日でも挨拶にやってくる人はいた。
よくわからないけど、父の事務所にはたくさんの人が出入りしていたのを覚えてる。



父と過ごせる時間は貴重だし「私」を見てくれるので大好きだった
でももしかしたら、私は母から離れられれば、誰でもよかったのかもしれない。

父は私が小さい時から、よく大人の考え方を教えてくれていた。
私が覚えてる話がふたつある。
小学校に上がる前後の頃、してくれた話だ。

「体型が太ったらどうする? 太るのは簡単だが痩せるのは難しい。選択肢は
1.運動する
2.エステに通う
3.サプリなど飲んでみる
どれを選ぶ?」

というのだ。

1をするには続ける根性が必要だし
2をするには費用を用意しなければならない
3に関しては想像もつかない

わたしは運動が大っ嫌いだ
汗かくのも楽しいけど、参加していいものと、してはいけないものがあったし、ルールとかが難しく感じてしまうからだ(JWの教えと一般的なルールが混在してしまう)。

だから、根性ないと言われても、私は運動は選ばなかった。

幼い私は「エステを選ぶ」と答える。
父はまた言う。
「誰のお金で行くんだ?」
「お金ちょーだい!」
「自分のお金で行かないと意味が無いよ」
「貯めていくか新しく稼ぐ…かなあ」
「どうやって稼ぐ?」

なんて会話をしていた。
こうやって学びが始まる。


もうひとつの話は、お正月によく聞いた。
貰えるお年玉は貰っていた。
貰ったお年玉がどうなったかは覚えてない。
貰えるものは貰う、愛情表現のひとつでもあるそれは貰うしかなかった。

「1万円がここにある」
「うん」
「どうする?」
「欲しいもの買いたい!」
「そしたらこのお金は無くなるね」
「うん」
「1万円の稼ぎ方って知ってるか? とても難しいし、時間がかかる。この1万円をどうしたら3倍の3万円になるかを考えないとダメだよ。宝くじとかはダメ」
「…難しい」
「難しくても考えな。答えはすぐ出ないかもしれないけど、考えながら使うことで、お金は大きく変わってくる。お前はすぐに考えるのを止める癖があるから、考えて考えて考え続けな」



なんて会話を覚えてる。
こういった会話の端々が、少しずつわたしを変えていった。

だからこそとても感謝している。



余談だが、父方の祖母もまた風変わりな人だった。

群馬県生まれの祖母はよく孫たちから「うるせー鬼婆」なんて言われてた気もするが、とても自分にも他人にも厳しくて、口は悪いけど、そこには深い愛があった。

祖母が語る話が私は好きだった。
父の休みがないと祖母の家まで来れないので(母は近寄りすらしなかった)、
お盆の頃とお正月に行くのが楽しみだった。

祖母は婿養子として祖父を家に迎えた。
だから、祖母の方がパワーバランスは大きい。
後々聞くところによると、祖母の実家は名家だったそうで、それはそれは財産が沢山あったそうだ。
一等地とかヘリコプターとかね。



だからこの家では、何をするにも祖母の許可が必要だった。

でも、祖母と祖父は当時別居してたため
(祖母が自分の店舗に篭ってしまった、ともいうらしい)
あまり一緒にいるところを見た事がない。

おばあちゃーん
と声をかけると、孫が沢山いるからか、
だれだーい?
と声が帰ってくる。
わたしだよー というと、
おー、よく来たねぇパパちゃんとママちゃんは? と言われた。
ママは来てないよーパパは事務所にいるー と返すと
そうかーい、ちょっと座ってな ばーちゃんお茶でも淹れようね
と言ってたのを覚えてる。


もうこの頃は、カカァ天下で鬼婆な祖母も歳には逆らえず、背中も丸く曲がっていた。
耳も遠いし
目も病気でほぼ見えてなかった。

それでも自立心は強く
自分でやってきた店は好きだったみたいで
窓ひとつない店舗を寝床にして生活していた。

おばあちゃん今日はどんなお話する?

おまえはいい子だねぇ 大丈夫かい?
今日は何月何日かね

夏休みだからー8月15日だよー

もうそんな時期か
終戦記念日と言うんだよ
おばあちゃんは防空壕で生まれてね


と、昔語りが始まる。

後に祖母は亡くなるのだが、
結構厳つい人で、会う度に祝日の意味を教えてれる愛国心の強い人だった
その理由も後でわかってくる。
とにかく私にとって、父と祖母は大きなキーパーソンだったんだ。



反対に祖父はとっても優しかった。
優しすぎて従姉妹たちからお金を巻き上げられていた🤦‍♀️

それでもニコニコしてる。
そんな人だった。

だけど、笑った顔がガマガエルみたいで怖くて、私はよく泣いていた笑



母方の祖父母や叔父は、
昔から頻繁に家に顔を出していたのもあってか、
よく旅行に連れてってくれて、
外食もさせてくれて、
おもちゃも買ってくれてた。

「遊んでくれる」からとても好きだった。
だけど、母方の実家はまた別の宗教を信仰していた。

「大山ねずの命」と言うらしい。
私が小学校に入った頃は、よく証言を母と祖父母たちに対してしていた。

エホバの証人に関しては、祖父は反対してる感じがあった。



お気づきかも知れないが、我が家は

父方:
父 叔父 祖父 祖母
母方:
祖父

と、各自商いをしていてみんな自営業。

そしてまあまあデカい規模で事業を回してたんだと思う

みんな歳とるごとに衰退していくのだが、
それは自営業あるあるだと思って欲しい。



要するに何が言いたいかと言うと、親族にサラリーマンがいない。

私の周りの大人はみーーーんな社長だ。

だから、
私自身「大人」は社長なんだと大きな勘違いをして育っていた…

わたしは生まれついての「社長令嬢」で、
父には運転手もいたし従業員もいたから、
私はまだこの時は「会社を継ぐ」か「社長夫人」になるんだと思っていた。


何の疑問も抱いたことはなく、
令嬢として、自営業をする男性を支える「女」としての心構えを祖母を見ながら育ってきた。




我ながら、いま振り返るとすごい価値観だと思う。(苦笑


そんな感じで、私の親族は個性がとても豊かなせいもあり、エホバの証人であることが「些細なこと」のように感じることがとても多くて、私自身、エホバの証人のいわゆる宗教二世だなんて、大人になっても気づいてなかった。


こんな、複雑な家庭環境で育つ私が、中学校を機に世界が変わる。



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