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当館収蔵の作家紹介 vol.5 片岡球子(かたおか たまこ)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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今回この連載で取り上げるのは片岡珠子氏。大正時代に生を受け、昭和、平成と三時代にわたり創作をしてきた日本画家です。
2008年に103歳の生涯を閉じるまで絵画制作を人生の伴侶として創作活動に打ち込んだ女性ですが、幾多の変遷をたどりながら片岡球子氏ならではの画風を確立しました。しかしそれは当時の日本画の在り方からはかけ離れた型破りな構図や大胆な色、線遣いで描かれたものでした。まるで日本画の概念そのものを覆えしてしまうのではないかというほどのパワーに溢れた画風。その結果、下記の紹介文にもあるように作品が「ゲテモノ」呼ばわりされることもあったようです。
けれどもそれらの作品は今、見る者に描かれたものの息づかいを感じさせます。そして、決してゲテモノではなく、彼女が時代を先取りしていたのだと教えてくれます。その証拠に、今年2023年の6月には岩手県立美術館において『面構 片岡球子展 たちむかう絵画』という展覧会が開催され、たいへんな注目を集めました。
片岡球子氏は果たしてどんな人物だったのか? 

片岡氏の作品は、2023年8月31日〜2023年11月25日の展覧会『日本の技と美 』文化勲章受章者作品展Ⅱ(1980-2021)でご覧いただけます。
本展は2021年に開催した文化勲章受章者作品展の第2弾となります。

「茂る」 片岡球子作 三木美術館 制作年不明


北海道札幌市出身。8人兄弟の長女として生まれる。女学校で教員免許をとり、さらに医者を目指していて許嫁もいたと言われているが、ここで友達の一言で1922年(17歳)現在の女子美術大学の前身・女子美術専門学校に入学。東京藝大の前身である東京美術学校が男子校であったことからも分かるように今では想像もできないほど美術の世界は男性社会。ちなみに東京美術学校にはじめて女子の入学が許可されたのは1946年である。それより前に女性として大成しているというのは、それこそ異才であり、異彩である。それを示すように、女子美術専門学校を卒業後、「画家になりたい」と両親に相談するも勘当されて、その後小学校の先生をやりながら吉村忠夫に師事し画業を続ける。1930年(25歳)院展で初入選。この時、吉村の反対を押し切って出品したため破門に。その後、何度も落選し「落選の神様」という不名誉な称号も。しかし1939年(34歳)以降、毎回のように院展で入選。1952年(47歳)院展の最高賞を受賞。その後、小学校の先生を辞めたあとは母校女子美術大学の専任講師となり画業を続ける。このころからモチーフが海、火山、と移り、富士山に出逢う。こののち、富士山とは死ぬまで戦い続けることとなる。女性でありながら院展で活動を続けるも画壇の風当たりは厳しかった。しかし、応援するものも現れる。特に重鎮小林古径は球子を可愛がり「ゲテモノを捨ててはいけない」と語ったとか。そこから1966年(61歳)愛知県立芸術大学の開校に合わせ日本画の主任教授になる。この年に始めたのが、ライフワークと言ってもいい「面構(つらがまえ)」シリーズ。歴史上の人物や浮世絵師を調べ尽くし、その人の内面を表す背景とともに大胆な構図と色彩で表現している。1989年(84歳)文化勲章。女性画家としては上村松園、小倉遊亀についで三人目。この三人を日本三代女流画家と呼ぶ。その後体調を崩しながらも103歳まで画業を全うした。ちなみに上村は74歳まで生き、小倉も105歳まで生きている。

                                      [企画・編集/ヴァーティカル 作家紹介/あかぎよう]  



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