人生初の入院

 12月7日、いよいよ入院。
「早めに出発しないと」と気が急く様子の父を、11時半に家を出れば十分間に合うよと何度もなだめた。予想はしていたが、やはり相当緊張しているようだ。
 昼食はカフェRで。夫は仕事があるので来れず、私が入院グッズの入った大きなカバンを2つ持ち、父と歩く。「重たいやろ。1つ持つわ」と言うので、ティッシュなどが入っている軽い方のカバンを持ってもらうことにした。
 カフェRに入ると「あらぁ、すごい荷物。どこ行くの?ああそうか、今日から入院なんやね」と店員さん達。常連客のKさんもいて、一緒に食事をしながらKさんの武勇伝を聞く。彼も若い頃に足の骨肉腫になり、手術をしたそうだ。そのため今でも歩き方がぎこちない。父は黙ってうんうんとうなずきながら下を向いている。口下手な父は、おしゃべりが上手なKさんの勢いに完全に負けているのだ。そこへ「これどうぞ」と、マスターがフルーツをサービスしてくれた。
「お腹パンパンや」と言いながらも全て食べ終えた父は、みんなに激励されながら店を出て、タクシーで病院へ移動する。指定された場所へ行くと看護補助の方が迎えに来てくれて、病棟まで案内してもらった。父が入院するのは8階東病棟。病棟に着くと担当の看護師さんとバトンタッチし、ナースステーションで身長と体重を測る。ジャンパーを着たままで、157.5センチ44.9キロ。
 そのまま看護師さんが病室まで案内してくれる。ナースステーションから一番遠い4人部屋。「805号室。Uさん」と、父は担当の看護師さんの名前を繰り返している。
 病室へ着くとすぐにバイタル測定。そもそも緊張している上に一生懸命歩いてきたので、血圧がとても高い。U看護師に「沢山重ね着してるねえ」と言われながら服をめくってお腹を出し、明日の手術のためにおへその掃除をしてもらう。
「後でもう一度血圧測りに来ますね。それからお風呂に入ってください」と言われ、父はたまげる。「ええ?昨日入ってきたで」「でも明日手術やから、昨日入ってても今日も入ってください」
 4~5日に一度しかお風呂に入らず、入浴は大仕事のように捉えている父は、昨日入ったのにまた入らないといけないのが納得いかないらしい。何より、初めての場所で初めての人達に会い、あれをしてくださいこれもしてくださいと言われて完全にパニックに陥っている。普通の人でも多少は慌てるのだから、父にとってはかなりきついだろう。

「暑い」
 建て替えをして間もないという病院は、外来ももちろん綺麗だが、入院病棟もとても綺麗だった。ベッドも枕頭台も据付のクローゼットもまだ新しい。床も絨毯貼りで、廊下を歩く人の足音はほとんど聞こえない。大きなガラス窓からは、真夏かと思うくらい燦々と太陽の光が差し込んでいる。そんなにも日の光が入ってくるのに暖房がよくきいているので、先ほどU看護師に言われた通り、下着にネルシャツに厚手のトレーナーと重ね着している父は暑くてたまらないようだ。ものすごいしかめ面でつぶやいた。確かに私も暑い。
「1枚脱いだら?」と促し、ついでに持ってきた沢山の荷物をクローゼットにしまっていくことにする。「お父さん、ちょっと待ってや。ええと、これをここに入れて、それはこっちで…」早くしないと入浴の時間が来てしまう。それまでに荷解きをして、お風呂の準備もしなければいけない。父もパニックになっていたが、私もかなり焦っていた。カーテンで仕切られた狭い空間の中で必死に着替えやタオルなどをクローゼットの引き出しに入れ、お風呂セットも作る。父は呆然と座ったまま、どうしてよいかわからなくなっている。
 しばらくしてU看護師が呼びに来たので、浴室へ案内してもらう。脱衣所で服を脱ぎ、ドアを開けてびっくり。まるでちょっとした銭湯だ。1人で入るにはちょっと贅沢だなあと思う程度には広い。おずおずと足を踏み入れる父。介助者用のサンダルが置いてあったので、それを履いて私も中に入ってみる。
「どうしよう、このままここにいようか?脱衣所で待ってようか?心細い?」と尋ねると、父は子どものように「こころぼそい」と答えたので、無事風呂から出るまで見守ることにする。
 しかしながら、長い。どれだけ時間をかけるのか。てっぺんが少し薄くなった短い髪を2回洗う、これはまだいいとして、やせっぽっちの体を石鹸のついたゴシゴシタオルで3回も洗っている。何で?こだわり?そんなに一生懸命洗わなくてもいいから、4~5日に1回のところを毎日サッと入ればいいのに。
 父が体を洗っている間に「大丈夫ですか?」と看護師さんが2回様子を見に来た。「手伝いましょうか?」「い、いえいえ、大丈夫です。すみません」そりゃそうだ、脱衣所には15分以内で入ってくださいと貼り紙がされている。30分もかけて入っていたら心配されるのも無理はない。
 予め張られていたお湯に体をつけ、ホカホカになり浴室を出た父。「時間かかってすんません」とナースステーションに声をかけている。後の患者さんに迷惑がかかっていなければいいのだが。再び血圧を測ってもらうとやはり高いままだったが、あとは夕食まで特にすることもなくなったので、父も私も少し気持ちが落ち着いてきた。

 落ち着くと、周りを見渡す余裕が出てくる。4人部屋の病室には、父以外に2人の男性が入院していた。斜め向かいのベッドの男性に挨拶してみる。「今日からお世話になります荒井です。よろしくお願いします」私も入院した経験はなかったので、こんな風に挨拶をするべきなのか迷ったが、しないよりもする方がいいだろうと思った。決して快適ではない入院生活を、少しでも気持ちよく過ごすためにも。
 男性は笑って会釈してくれた。小柄で優しそうな人だ。父と同年代くらい。大きな点滴バッグをぶらさげている。見たところ、普通の水分補給のための点滴ではなく、栄養補給のための高カロリー輸液だ。ベッドの傍らにはポータブルトイレが置かれている。病室のすぐ脇に普通のトイレがあるが、そこは使わずポータブルトイレで用を足しているのだろうか。術後間もないのかな。何の病気だろう。
 男性の向かい側、父の隣のベッドには、60代くらい、白髪混じりのスラリとしたメガネの男性が、パイプ椅子に座りじっとテレビを見ている。父が「すんません」と声をかけたが、イヤホンをしているので気づく様子がない。腕組みをして足も組み、真剣な顔つきで画面を見つめている姿からは、何だか気難しそうな雰囲気が漂っている。怖そうだな、この人とは気が合わないかも知れない。「また後で挨拶しよう」と言って父とベッドに座る。
 急いで荷解きをしたが、風呂に入っただけだったし、今度は何もすることがなくなってしまった。夕食までまだうんと時間がある。どうしよう。

 と、父が立ち上がり、病室の外へ出た。扉のところについている、患者名が書かれたネームプレートを見ている。父の名前と共に、主治医のM先生の名も書かれている。すると、先ほど挨拶をした斜め向かいのベッドの男性が点滴を引きずりながらゆっくりと歩いて出てきた。珍しく父が話しかける。「Dさん?」ネームプレートに書かれている名前。「はい、Dです」と男性は微笑み、そして2人で話し始めた。Dさんが廊下にあるベンチにゆっくりと腰を下ろしたので、父も隣に座る。
 驚いた。父にこんなコミュニケーション能力があるとは。が、せっかく話しかけたのにすぐに会話は途切れ、Dさんはぼんやりし始め、父はうつむいてお決まりの手遊びをし出した。何でやねん。
 仕方がないので2人の様子を見守っていると、先ほど挨拶出来なかった隣のベッドの男性が出てきた。濃いブルー系の前開きのパジャマに、紺色のマフラーをしている。ネームプレートには「T」と書かれてある。主治医は父と同じでM先生。父が立ち上がり、「荒井です。よろしくお願いします」と挨拶した。
 怖そうな人だけどどんな反応をするだろう。どこかへ行くために出てきたのだろうし、適当に相槌打たれて終わりかな。そんな風に思った次の瞬間、「ああ!こちらこそよろしくお願いします!」と、予想を覆す明るい返事がかえってきた。最初の印象とは全く違う、社交的な性格のようだ。Dさんも立ち上がり、そのまま3人で話し出す。
「今日から入院ですか?」「はい」
 おじさん3人は入院トークで盛り上がり始めた。 
「どこの病気ですか?」DさんがTさんに尋ねる。2人もこれが初めての会話だろうか。だとしたら、話すきっかけを作った父と私の挨拶攻撃はファインプレーだったかも知れない。
「私はねえ、胃がんです」Tさんが答えた。父と同じだ。
「手術しはったんですか?」「手術しましたよ。ただ私の場合はレアケースでね…」と続けたTさんの話に、私は仰天する。
 発見時にはすでにあちこちに転移していたが、1年かけて抗がん剤治療をした結果転移は全て消え、M先生が原発である胃がんの手術に踏み切ったのだという。胃の3分の2を取ったのだそうだ。手術は無事成功、経過も順調で、明後日に退院を控えている。
 これを聞いて、父も全く望みがないわけではないぞ、と勇気が湧いてきた。もし明日の腹腔鏡で腹膜播種が見つかったとしても、抗がん剤で播種を消すことが出来れば、手術して完治することも夢ではないかも知れない。
 Dさんは大腸がんで、数日前に手術を終えたところらしい。だからベッドの横にポータブルトイレがあったり、高カロリー輸液をしたりしているのか。私もおじさん達に混じって話をした。父も胃がんであること、明日手術であること。Tさんから色々質問されたが、父の手前詳しく答えることが出来ない。M先生が父にしたのと同じように、まずは胃のぐるりを腹腔鏡で見てから、とだけ説明した。
 何にせよ、同室の方がいい人達でよかった。Dさんもそうだが、Tさんは最初に怖そうだと思ったのを謝らないといけないくらいに気さくな人だ。トイレの電気のつけ消しのコツなど、何か気がつくたびに父に声をかけて教えてくれた。
 初めての場所、初めての人達ばかりの中で父がやっていけるかどうか心配だったが、2人のルームメートのおかげで、心強い気持ちになった。

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