母が生きていた話

昨年の暮れ近くになって、十数年ぶりに母の消息が届いた。

もともと私は母親にべったりの子どもで、小1で両親が離婚して母子家庭になったこともあり、母親への依存が強かった。

家事も裁縫も日曜大工も、できないことは何もないような母だったが、占いや宗教じみたスピリチュアルな──当時はそんな言葉はなかったが──事柄に傾倒していき、私が中3になった春に突然宮崎の実家に転居した。

それからしばらくして、母は泊まりがけで出かけると行って家を出て、そのまま行方不明になった。母の車が高速道路上で乗り捨てられているのが見つかり、当然警察沙汰になった。

母が残していった行き先のメモも実在しない法人だったようで、何の手がかりにもならなかった。

生きた心地がしないまま過ごし、ある日母はふらりと帰ってきた。何でもガラの悪い連中に絡まれて車を乗り捨てたのだというようなことを言っていたが、辻褄はまったく合わなかった。

それでもその時はとにかく無事で戻ってきたのだからそれでいいと、私も祖父母も納得せざるを得なかった。心配のし通しで追及する気力が残っていなかったのかもしれない。

そして翌春、中学の卒業式の日に、私は母と二人で学校へ行った。不登校児だったので、式には出ずに担任から卒業証書だけ受け取った。

その帰り道に、母は図書館に寄って帰ると言って私と別れた。
そしてまた帰ってこなくなった。

そんなふうに、ある日ふらりといなくなって、ずいぶん経ってからまたふらりと帰ってくるということが、その後繰り返されるようになった。

会話は成立しなくなり、食事を一緒に取ろうとしなくなった。やがて入浴もせず部屋にこもり、ずっと独り言を言うようになった。独り言というよりは、そこにいない誰かと会話をしているような調子だった。

祖父は怒り、呆れ、関わろうとしなくなり、祖母は途方に暮れたといった様子だった。
私は、とても冷静に母と向き合い対処するような心の余裕はなかった。

祖父は母に対する不満まで私にぶつけてきたし、祖母は味方ではいてくれたが、「あんたは親がいないんやから」と度々言われ、孤独感が増した。

今にして思えば、母の状態は統合失調症(当時の言葉で言えば精神分裂病)の症状が顕著に出ていたが、本人に病識はなかったし、高校生だった私にはどうしようもなかった。

母はいったん家を出ると何週間も何ヶ月も帰ってこなかった。
家にいない間は、ほとんど野宿生活をしていたようである。どのように食糧を調達していたのかは知らないが、不思議なことに、精神に異常をきたしてからの母は身体的には健康なようであった。

母は十代の頃から腎臓が弱く、そのために入院していたこともあり、私が産まれてからもしばしば寝込むことがあった。
それが、宮崎に戻って家出を繰り返すようになってからというもの、具合が悪いような様子は一切見られなかったし、実際健康だったようだ。

母の放浪生活は全国に及んでいた。
不審な野宿者がいると通報され、その度に警察から連絡があったが、その場所はいつも本州以北だった。北海道から連絡が来たこともあった。

私は実家暮らしが耐えきれず、大阪の大学に進学して一人暮らしを始めた。
学費は父が援助してくれ、二種類の奨学金も得ていた。

大学在学中も、母の暮らしぶりは変わらないようだった。
たまたま母が在宅しているタイミングで帰省した折には、荷物から目を離した隙に財布から現金を抜かれ、私はますます実家に近付かなくなった。

大学を卒業して後、私は大阪市内の企業に契約社員として就職したが、その会社にも警察から母のことで電話がかかってきたことがあった。
幸い私が取った電話だったので騒ぎにならずに済んだが、心底肝が冷えた。

私はめったなことでは実家に帰らなかったので、最後に母の顔を見たのは大学在学中に帰省したときだ。
黒々と日に焼け、ずっと長かった髪を短く切っていた。

やがて祖母に認知症の症状が見られるようになり、祖父と折り合いの悪かった私は、実家と連絡を取ることもなくなった。

母はもう長いこと帰ってきていないという話を聞いたきり、十数年が経った。

それが、昨年の末のことである。
宮崎の大伯父から着信が入っていた。私はてっきり祖父母のどちらかが亡くなったとか、そういう話だろうと思ったのだが、続いて広島県警から電話がかかってきた。

県警からの電話に出ると、自動車専用道路を歩いていた女性を保護したが、あなたが娘さんで間違いないか、という話だった。

どうやら警察に保護された母が宮崎の実家か大伯父の連絡先を言い、大伯父から私の番号を聞いた警察が電話をかけてきた、という事情らしかった。

警察官はずいぶんと言葉を選んで話してくれたが、推測するに母は完全にホームレスの身なりで、ろくに話が通じず、態度も非協力的で、かなり迷惑をかけたようだった。
それについて私は何一つ意外に思わなかったが、何よりも驚いたのは母が生きていたということだった。

計算してみれば母はすでに65歳、定住もせずに夏と冬を越すのは困難なはずだった。

中学3年から大学卒業まで、母に苦しめられ続けた私に母恋しさなど残っているはずもなかった。
どうかこれ以上私の人生を狂わせないでほしい、関わらないでほしいと願い続けていた。

警察によると、母は広島で生活保護を受けることを希望しているとのことで、私はそれについて異存のない旨を伝え、おそらくは根気強く母に対応してくれたであろうこと、身内である私に配慮を示してくれたことについて礼を述べた。

大伯父とも電話で話したが、大伯父の方でも手に余る話で困ったというのが本音であるようだった。

母自身にも帰る意思がなく、私にもできることは何もなかった。
広島まで行って顔を見るくらいのことはできたが、決して見たい顔ではないし、本人もそれを望むようなことは言わなかったようである。

満足な金があれば、専門の治療施設に入れるという選択肢もあったが、私は自分の生活費すら賄うことができずにいるのだ。何ができるはずもない。

祖父母も、大伯父も、私も、母についてすっかり諦めていたし愛想を尽かしていたが、大昔に母と別れた父だけは、ずっと母のことを案じていたのを私は知っていた。

父の記憶の中の母は、美しく、子育てに熱心な、昔のままの母だったのだろう。

私は父とも長く連絡を取っていなかったが(仔細は省くが、私が精神科にかかった直接の原因が父だった)、黙っているのは不義理が過ぎると思い、私は何年かぶりに父にメールをした。

母の現状を伝えると、心臓が悪いだの何だのと言っていた父は翌週には広島に赴き、現地のボランティアの協力を得て母を見つけ出したそうである。

無論、父の手に負える状態であるはずもなかったが、その後も何度か父は広島を訪れたらしい。
母は結局生活保護の申請をすることはなく、ホームレス生活を続けているようだ。

母の生存を知ったからといって私の生活が何か変わったわけではないが、両親がこの世にいるにもかかわらず、家族としての機能だけが喪失されているのは、何とも言えず虚しいものがあると感じた。

父は母との離婚後間もなく再婚し、新しい家庭では娘も生まれ大きな問題もなく暮らしているので、どうかその暮らしを最後まで守ってほしいと思っているが、私と父の関係が今後改善する見通しはない。

同世代の人々が、両親と親密な関わりを持っているのを見聞きすると、羨ましいというよりは、未知の世界を垣間見るようで不思議な気持ちになる。
この歳になってまだ気兼ねなく会話ができる親がいるというのは、どういう気分なのだろうか。

私が家族に対して屈託なく接することができたのは、はるか遠い子ども時代の話である。

サポートをいただけると生存率が上がるかもしれません。用途については記事でご報告いたします。