見出し画像

イマドキの高校写真部(その6)

今回は、「写真甲子園は高校写真部をどう変えたか」。そして、写真甲子園を取り巻く諸事情についての、あくまで個人の体験に基づく感想です。勝手に大会関係者やこれまでの選手・監督の皆様を代表するつもりはありませんので、そのつもりでお読みください。

さて、前回も書きましたが、写真甲子園は高校写真部のコンクールとしては非常に珍しい「団体戦」「勝ち抜き戦」。「部」といいながらも実質的には「個人戦」の集合体のような存在だった写真部に、「共同作業」「一体感」「新たな目標」をもたらしました。写真甲子園が写真部の活動に大きな柱を作ってくれたことは確かです。しかし、そこには落とし穴が。

「いい写真を撮り、できるだけ多くの人に見てもらいたい」。写真を楽しむ手段としてのコンクールであり写真甲子園であったはずが、いつの間にか「本戦(全国大会)に出場すること」が至上命題になってしまっていたのです。好きな写真が撮れればそれだけで幸せだったはずが「傾向と対策を練って賞を取ること」が目標になってしまうと、ともすれば自分たちが本当に撮りたい写真を見失ってしまうことにもなりかねません。私や当時の部員たちも、一時期は完全にそうした落とし穴にはまっていたように思います。特に顧問の私の目は、完全に血走っていたことでしょう。実際、残念なことですが写真甲子園本戦では、過去に監督による直接指導などの不正行為※があったと聞きます。

例えば映画「写真甲子園 0.5秒の夏」(2017)の序盤での旭岳での撮影の場面。あるチームでは監督(顧問)がファインダーを覗いて構図を決め、シャッターだけ選手に押させる、という不正行為が行われています。この映画には大会関係者への綿密な取材に基づいて大会で実際に起こった出来事がかなり盛り込まれていますので、おそらくは現実に起きたことだと思います。こうなると、いったい誰の写真かわかりませんよね。

※写真甲子園では監督によるデジタルカメラの持ち込み、撮影現場で選手のカメラを触ったりのぞき込んだりすること、またその場での具体的アドバイスなどは禁止。組写真制作の「作戦会議」の時間も監督が助言できるのは20分程度と、生徒主体であることが徹底されています。

たとえば、「写真甲子園を勝ち抜くために、今日は〇〇の技術を習得!」という運動部的なノリの「訓練」や「修練」も技術を高めることでより写真を楽しめる側面もありますから、決して否定はできません。でも、思うに、文化活動の本質的な価値は、優劣や勝ち負けではなく「ただやること」にあるのだと思うのです。

幸い、私が記憶している「写真甲子園の目指すもの」には、こんなものがあります。

「入り口は競争でも、出口は感動」

勝敗を越えた感動。立木先生もかつて表彰式でこうおっしゃっています。

「写真甲子園は、後半戦(終わってから)の方が相当おもしろい。ここからあなたたちの写真の歴史が始まるんだよ」

大会に参加すると、関係者の皆さんが、この大会を通じて全国の高校写真部の活性化と健全な部活動としての発展を心から願っていることをひしひしと感じます。その努力には元・監督として心から敬意を表したいと思いますし、自分もその一人でありたい、と思います。

最後になりますが、現在の勤務校の生徒たちは、今年の写真甲子園の応募を断念しました。理由は「納得いくものができない。中途半端な作品を出したくない」。これもまた、大会、そして写真への敬意の表れだと思うのですが、さていかがでしょうか。

次回は、ちょっと本質的なお話。「『いい写真』って何?」です。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?