「ひく」という現象を紐解き、Context ベースの学びを。
何かを学ぶ時、学ばせる時にワークショップやアクションラーニングを用いることは多いと思う。
そういった場を提供する人にとっては、「インタラクティブに」とか「教えるのではなく気づかせるのだ」などのマジックワードがきっともう耳タコになってるはず。
それなのに実際に本番を迎えると、盛り上がらず参加者が「引く」、ときにはドン引きと言えるような空気になってしまうこともある。うまくいく、うまくいかないを分ける要因が分からず、うまくいくパターンを意図的に再現することは難しい。自分も仕事柄10年近くこれに苦しめられている…
今日、個人的に通っている講座の中で、劇作家の平田オリザ氏のお話を聞く機会に恵まれた。上に書いたようなことについてのヒントを得ることができたのでメモ。
1. まず、学びのパターンを理解する。
前段の話になるが、人間の学びには3つのパターンがあるそうだ。
①できるようになる(手順を覚える)
②わかる(知識を獲得する)
③分かち合う(他者と分かち合うことで気づき、意味を形成する)
一口に学習と言っても、世の中には様々な手法が存在する。
世界各国の学校授業風景を見比べるとその様子は意外なほど異なっているだろうし、日本の中学や高校の授業に限って見ても、理科実験みたいな実践的なものから標準的なクラス学習までいろいろある。
ただ、インターネットの普及によって上記①②の在り方は全く変わってしまった。知りたいことは検索すれば知ることができるようになり、他の人が知らないことを知っているだけではあまり意味がない、とさえ言える時代になった。
一方で、私たちは皆、他者と触れ合うあらゆる場面に学びの瞬間があることを体験的に知っている。
遠い昔の友人との何気ない会話がやけに鮮明に記憶に残っていて、そこに自分の生き方を左右するような大きな気づきがあったりする人も多いと思う。上の「③分かち合う」とはそういうことだと思う。
分かち合うことでの学びには、正解がない。
正解ではなく、納得解だけ。
ただ、自分たちが捻り出したというプロセス自体に自己原因性感覚があり、その納得解は自分自身の学びとしてずっと心に残る。
知識やHow toが溢れている今だからこそ、自分なりの学びを欲している人が多いのだと思う。本で読むという行為でさえも他者を介在するようになってる。
だからこそ、冒頭で述べた(この話の本題である)ワークショップやアクションラーニングが世の中から求められているし、すでにタケノコのようにたくさん生まれている。
2. 「ひく」とはつまるところ一体何なのか。
残念ながら、ファシリテーター側が一生懸命考えた肝入りのワークショップなのに、受講者はしらけて引いてしまうことがある。
この、「ひく」とは何なのか。
『イメージの共有ができていない段階で強い主張を突き付けられ、受け入れることができない状態』
ということらしい。
例えば、劇場で幕が開いたその瞬間に壇上で「青春って素晴らしいよね!」と始まると観客は間違いなく引く。その劇がどんなものなのか、どんな人物が何をするのか、全くイメージができていないから。
演じる側と観る側にイメージが共有されていないと感情移入は起こらず、伝えたいメッセージは伝わらない。
対して、登場人物がどんな流れで「青春って素晴らしいよね!」と言うに至ったかが共有できていると、観客はそれを受け入れることができる(=引かれない)。
しかし、イメージの共有は簡単ではない。イメージするものは驚くほどに人それぞれだから。短い時間でその場にいる多くの人のイメージを揃えるのは至難で、実現のためには相応の工夫が求められる。
少なくとも、ワークショップの頭から突然参加者同士のスキンシップを求めたり、「たのしく元気に!」みたいな過度な明るさを振り撒いたりすることは、イメージの共有を待たずに一方的な主張を押し付けることになるだろう。
まず参加者がどれくらいの体温でいるのかを見極める。ゆっくりと時間をかけて、誰もが知っているようなイメージのしやすい材料を用いて場の温度を合わせていく。何故この場に集まっているのかを消化させる。
それらが出来て初めて参加者同士の会話を促す、くらいで丁度良いのかもしれない。
3. Context(文脈)を使ってイメージを共有する
イメージを共有するために有効なのがContext(文脈)だ。
横並びの点でインプットするのではなく、ストーリーの流れの中でインプットを行う。
その一つの好例が、落語である。
落語は、話し手の言葉だけでストーリーを語り、聴衆を笑わせる。
これを成り立たせるためにはContextを示してイメージを共有することが不可欠だ。
落語家は、「蕎麦を食べる」という一つの行為を使ってイメージの共有を見事にやってのける。
表情・声色・動作・蕎麦をすする音・隣の客との粋な会話など色々な方向から表現し、聴衆をあたかも江戸時代の城下町にいるかのような気持ちにさせ、当時の風俗を明確にイメージさせる。
だから、落語を聞きに来ている人がドン引きすることなど皆無で、話に大いに引き込まれ、大笑いする。
4. 一人ひとりのContext(Personal Context)を引き出して「分かち合う」学びを得る
ワークショップのような「分かち合う」学習には正解はない。
「正しい答えを見つけなさい」というインプット型学習の根幹をまず捨て去る必要があるし、他者との対話の中から納得解を見つけるためには、参加者がその場を受け入れポジティブな感情を持っている(ようは引いていない)ことが必要だ。
その状態を作り出すには上述のとおりイメージの共有を行わなければならないが、落語や演劇のように演者や場面設定によってContextを語ることができない。さてどうしたものか。
そこで重要になるのが、その人だけのPersonalなContext を引き出すこと。
例えば、教室を歩き回りながら誰かに話しかけるような類のワークを行った時に、一人だけ誰にも話しかけられない子がいたとする。
その時、
「勇気を出して話しかけてみよう!」
「話かけて仲良くなった時のことを想像してごらん」
「臆せず話しかけることができる人の気持ちになってごらん」
などと言ったところで、その子は話しかけられないままに終わることがほとんどだろう。なぜなら、その子は話す勇気が出ないから話しかけられていないのだし、話しかけて仲良くなった経験が少ないからそれをイメージすることはできない。ましてや話しかけることができる人の気持ちなど想像できるはずがない。
対して、Contextを意識して対話をしてみる。
「最近、お父さんお母さんでも仲の良い友達でもいいんだけど、自分から話しかけたことってある?」
「お母さんに話かけた時は、怖かった?」
「その時と、今は何が違うと思う?」
などと会話をすることで、その子自身のContext(文脈)を探り、イメージを擦り合わせていく。
そうすることで、その子は次の回では話しかけることができるかもしれない。もし、話しかけられなかったとしてもそれで良い。そのことをしっかり伝える。「話しかけられなかった」ということがその子にとっての納得解であり、そのことからきっと山ほどの学びを得ると思うから。
いじめ問題でも同じで、「いじめられてる子の気持ちを考えてみなさい」と言っても、想像ができないから響かない。「最近嫌なことあった?」と聞いてみて、嫌な思いをするということを内省させた方が効果があるだろう。
同化を求めて諫めるのではなく、共感を示すことで自ら考えさせるということだ。
まとめると、参加者同士が対話し、有意な納得解を得る体験を提供するには
・Contextの中でイメージを共有していく
・さらに対話を通じて参加者個人のPersonal Contextを深く掘り下げていく
・自分の言葉や振る舞いが周囲に影響を与える実感(自己原因性感覚)を引持たせ、自己肯定感と当事者意識を引き出す
といったことをしていくと良い。
5. 伝えたいことは伝わりにくいこと
「良いものであれば勝手に伝わる」と思ってはいけない。
ワークショップなりアクションラーニングのプログラムを提供する側は、参加者に「ハッとするような気づき」を得てほしいと切に思う。
だから、その内容を素晴らしいものに練り上げることに時間を注ぐ。
ところが、上で述べたように人間はイメージの共有がないと物事を受け入れることが難しい。
ちょっと考えてみてほしいが、研修の講師が受講者に伝えたいこと、学者が長い研究の末に見つけたすごい発見、そういったものは聴く側にとっては斬新で頭の中には全くなかったものであることがほとんどだ。
見も知らぬことをイメージすることは本当に難しい。
だから、伝えたいことほど容易には伝わらないものだと思っていたほうが良さそうだ。
日本の教育機関や企業はとくにこの「伝える」ことが弱いと言われる。
だから尚のこと、学びの機会を提供する側はそれが本当に素晴らしいものだという自負があったとしても、それを伝えることに執心せず、イメージを共有するプロセスを緻密に設計し、Personal Contextに結び付けながら伝えることを意識すべきだと思う。
長くなりましたが今回のメモは以上です。
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