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1ヶ月前に買った今川焼をやっとたべるまでの話



今川焼がおいしかった。おいしくて、それだけでうれしかった。


すきだと思っていたたべものを、からだが受け付けなくなって数ヵ月が経つ。
おおまかには、肉と魚、パン。
どれも日常的に選んで、たべていたものたち。


スーパーの精肉売り場、鮮魚売り場の前を通っても食欲のセンサーは反応しなくなった。
陳列されている赤やピンク色の柔らかそうな肉の断面、青々と光る魚の切り身をみただけで、「う」と思う日もある。
じぶんのからだにこんなことが起きるとは。
正直、肉と魚のショックはあまり大きくなかった。
でもパンはだいすきだったから、「受け付けられません」とじぶんのからだに言われたときは悲しかった。


いまはお米、野菜、くだもの、たまご、乳製品、あとはうどんやパスタをたべている。
パンはだめだけど、うどんやパスタが大丈夫なのは、小麦粉とバターがいっしょになっていないから、のようだ(じぶん調べなので真相はわからない)。
だから、植物性オイルのパスタはたべられるけど、バターがはいったペペロンチーノやカルボナーラはたべられない。
人間のからだは不都合、こころも。


そんななか、1ヶ月ほど前、スーパーの冷凍食品売り場を通りかかると、今川焼をみつけた。
瞬間的に「たべたいな」と思った。
でも「たべられるのか?」と思った。
だって、いっけん和菓子っぽいけど、パンっぽさもある。
生地だけで考えると、かなりパンに近い。
というかほぼパンでは。
急に口のなかに、ホットケーキの食感と甘さがよみがえって、思わず後ずさりする。
見なかったことにしようとレジに向かおうとするも、でももしかしたら……という思いが消えなくて、なかば強引に買って帰ってきた。
その決断だけでかなりエネルギーをつかったのか、今川焼は開封されないまま冷凍庫へおさめられた。
そのまま時間が過ぎていった。


昨日はひとに会って、話をして、おなかがすいて、ふと「小倉トーストがたべたい」と思った。
そんなふうに思うのはひさしぶりだった。
ちょっとびっくりした。
最寄り駅のスーパーで、すこし高めの食パンとつぶあんの缶詰を買って帰宅する。
帰宅するまではよかった。
ただ、台所に立ったときには、さっきまでの純粋な「小倉トーストがたべたい」という気持ちはなくなっていた。
たべたいと思って用意したはずのものを、やっぱりたべられなかったとなると、もっと悲しくなってしまう。
そう思うと、からだが動かなかった。


今朝、生理痛で動けないまま11時をすぎる。
布団から顔を出して、ぼんやりした頭で、冷凍庫にしまった昨日の食パンのことを思った。
たぶん、このままたべないんだろうな。
たべないまま捨てることだけはしたくないな、だれかに引き取ってもらえないかな、などと思っていた。

ようやく起き出してしばらく経っても、からだの中がうまく動いていない感覚があった。
おなかはすいているけれど、消化に時間がかかるような重いものはたべたくない。
冷たいものもちがう。
もっとこう、あたたかくて、あまくて、ふわふわしているものがいいと思った。
ふと、今川焼のことを思い出した。
冷凍庫の扉をあけて、昨日買った食パン、その下の冷凍うどんをとりだす。
いた。
いまならたべれる気がした。


戸棚の一番奥からホットサンドメーカーをひっぱりだす。
パンをたべなくなったので、この子をつかうのもひさしぶりだった。
この重みが懐かしい。
軽く洗って拭いて、コンロにセットする。
今川焼は、てのひらに乗るこぶりなサイズで、なんならすこしがんばればふたつは乗る(わたしの手は同性のなかではかなり大きい方だからかも)。


ためしに並べてみると、ホットサンドメーカーにもふたつ乗る。ふたつ焼ける。
いったんじぶんのからだと相談する。
たべようと思えばたべれる量だけど、おいしくたべれるかはわからない。
もし足りなかったら、めんどうかもしれないけれどもっかい焼こう、それよりもひとつを大事にたべようと決めた。


できあがった今川焼は、きれいなきつね色だった。
慎重にお皿にうつす。
さわった感じ、外はカリっとしている。
中はどうだろう。
まんなかでふたつに切ると、黄色い生地となめらかそうなつぶあんがあらわれた。
湯気が出ている、いい感じ。


いそいそとリビングに移動する。
ほのぼのした風景だけれど、わたしにとってはやっと実現した会談、ぐらいの重みがある。
一呼吸おいて、たべてみる。
あたたかくて、あまくて、ふわふわしている。
おいしい。
求めてた味だ。
ゆっくりたべすすめる。
今川焼をもつ手がほんのりあたたかくて、寒い冬の早朝、ベランダで熱いコーヒーと一緒にたべたらきっとおいしいだろうと思った。
たべおえる。
たべたいものをおいしくたべられること、それだけのことがうれしかった。


1ヵ月前に買った今川焼をたべるまでだけで、こんなに長くなるなんて思わなかった。
人生いろいろある、というけれど、こんなにいろいろあるのはいまが一番かもしれないと思うほど、いろいろありすぎる。
いまは日々に手いっぱいだけれど、もっと自由に話せるときが来たらいいなと思う。
どういう形になるかはわからない。
物語なのかエッセイなのか、はたまた音楽なのかなんなのか。
けれど、それが結果的に、同じように苦しんでいるひとの人生に光をもたらすなにかになればいいなと、そう思っている。

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