見出し画像

「推し、燃ゆ」の感想と「みっちゃんの皮膚」の感想

推し、燃ゆ

宇佐美りんさんの「推し、燃ゆ」を読んだ。いまさら、と思われるかもしれないけれど関係ない。文学とはそういうものだ。文庫も出てたし。

いわゆる「推し」が、ファンを殴り炎上した、という書き出しから、高校生の主人公「あかり」の独白的な、自分と推しを中心とした世界、世間のありようが描かれている。

30代、40代なら「燃ゆ」は「萌ゆ」となりそうな「推し」という存在で、つまり時事性がありそうなテーマだよな、と芥川賞のニュースを見て当時思った覚えがあるのだが杞憂で、とても普遍的なお話であった。

本を読む前にレビューを読む、というあまり行儀の良くないことをしてみると「主人公の推しへののめり方に共感できない」という書評が目立ったのだが、たぶんそこはあまり関係なくて「みんなができていることが、自分はできない」という、世界からの疎外感(みたいなもの)を、何か外部装置(推し)を使ったり、赦しとして世間と繋がるお話なのか、と自分は解釈して、そこへの共感は、器質的というか、特質的な部分も必要なのだろうな、と思った。

生まれ持って背が低い、生まれ持った鼻の形、それと同じように脳にだって特徴があるのが当然だろう、と思うのだが表に見えない。それが特性として分類される。
背が低ければ高いところの物に手が届かない不合理さは脚立で解決できるが、社会性に脚立のような最適解がないのが難しいのだ。大なり小なりみんな持っているそんな居心地の悪さみたいなものが極端に触れたときに、顕出するものがあるのかな、と思った。

あとがきで、著者が実験的に文体を変えているという書き方をされていたけれど、それがものすごく効いていて、最初の10ページでまず、この本の魅力、人物の描かれ方に取り憑かれて、最後の50ページくらいで、カウンターを喰らう。魅力的な文章を書く人の文学は残酷だな、と思う。

みっちゃんの皮膚

SNSで流れてきたこの「みっちゃんの皮膚」という漫画も、とても文学的で「推し、燃ゆ」同様に、世界や世間との居心地の悪さの折り合いの付け方を、自分をキャラクタとして見立てて生きることでつけようとする、という不器用で美しい姿が、とても良かった。

「推し、燃ゆ」は、推しを自分の背骨と比喩して、みっちゃんは着ぐるみという皮膚で世間と分断する自分自身を「内臓」と比喩していた。どちらも、何かに寄り掛からなければ自分を成り立たせられない息苦しさを描いているな、と思った。

それでも生きていかなければいけない。
どちらのお話にも明確な希望は描かれていない。世間は息苦しいままで、それでも生きていかなければいけない。

息苦しさを生み出す世間にしか、希望を見出すことができない息苦しさにもがきながら。

とても良い読書体験ができた。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?