蹴伸びする師走
師走は「待ったなし」の旗を振りながらやって来て、よーいどんのホイッスルを鳴らす。その音が聞こえたら、とにかく走り出さなきゃいけない。ゴールは年末で、仕事納めとか来年の抱負とか、色んなことを考えながらひた走る。
でも不思議なことに、今年は年末に向けて猛ダッシュというより、新年へ、思いきり蹴伸びをするような気持ちだ。まだ12月なのに、もう気持ちが前のめりになっている。
それに、今年は心の断捨離もする必要がなさそうだ。だって、「今年に置いていきたい」と思う気持ちが何もない。何を言ってるのか分からない人もいるだろうけど、私にとって心の断捨離は年末恒例のことで、特にここ3年くらいは「この気持ちは、もう今年に置いていく。来年には絶対に持ち越さないぞ。」と、強い誓いを立てていた。
嫌なことが何もなかったか、というと全くそんなことはない。友達に「年表にして欲しいよ」と言われるくらいには、1年の間にあんなこともこんなこともあったし、だいぶ心を疲弊させた日々もあったのだけれど、忘れたい気持ちは、そのたび忘れてきたみたい。
歳のせいなんだろうか。覚えていられることの容量が減ってきたのかな。メモリー容量がいっぱいになって、要らない思い出から削除しているみたい。ずっと前に起きた嬉しいことは覚えているし、大切な悲しい思い出は覚えているのに、ただただ辛かったことや理不尽な思いをしたことは、全然その時の気持ちが思い出せない。いいぞいいぞ、私の脳。要らない記憶はどんどん消してくれ。だけど、胸が張り裂けそうに悲しかったことも、私にとって大切な記憶なら覚えててね。嬉しいことはもちろん、何年経っても残しておいて。
2023年、年賀状や年末のSNS投稿に書けるような大きなライフイベントは何も起きてない。だけど、こういうnoteを書いていること自体が私にとっては小躍りするほど嬉しい。3年前なんて、こんなことを書いていたんだから。
数年の間、対処療法的に書き続けてきたnoteだけど、最近は嬉しい瞬間や美しいと思った瞬間を残したくて、書き始めることが増えた。
こんな変化が、ただただ、嬉しい。明日はどうか分からない、来年の年末がどうなっているかも分からない。でも今は、今そういう地点に自分がいることを喜びたい。
せっかくなら、こんな気持ちのうちに、なるべく遠くへ蹴伸びしておこう。
蹴伸びって多分、躊躇したら遠くへ行けない。しっかり構えて、よーいどんの音が聞こえたら、思い切り壁を蹴る。蹴ったら、指先からつま先まで体をピンと伸ばして、水の流れに身をまかせる。なるべく遠くへ、なるべく前へと。迷いがあったら、壁をちゃんと蹴れないし、腰が引けていたら水の抵抗を受けてしまう。
無防備に、勢いよく、ためらわず。そうやって今の少し先に飛び込めたら、なんだか楽しい場所に辿り着けそう。
今年はよく生きたなあ。心も身体もたくさん使った。とっても楽しくて、とっても疲れた。疲れると、ちゃんとお腹が空くし夜もよく眠れる。
別に寂しさも不安もなくなってない。いつだって、今日も、当たり前の不安や希望の狭間で揺れている。いつもとびきり寂しくて、とびきり満たされている。幸福も虚無も同じページに存在している。
世界は知れば知るほど、分からないことばかりだ。1つだけ分かるのは、いつか私は無にかえるということ。でも今はまだ、こうしてとりとめのない文章を書いている私が此処に居るということ。
「分からないことばっかりだなあ、やりたいことが追いつかないよ。」そう思いながら、いつまでも年を重ねていきたい。
それで時々やってくる完璧な瞬間をコレクションみたいにして、おばあちゃんになったらホクホク眺めるんだ。今年もたくさんあった、完璧な瞬間。鴨川の飛び石に腰掛けて夕陽を眺めた時間とか、仲良しの同僚と何度も歩いた中目黒から祐天寺までの深夜の散歩とか。逗子で見た夕陽とか、アイスとか、そういうの全部、来年にも再来年にも持ち越して覚えておく。
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