7月になると思い出すこと
近年は、毎年のように大雨被害のニュースが流れる。
2018年7月。
西日本のあちこちで豪雨による被害がたくさん出た。
この年は、その豪雨被害が出る前から、雨量が多かった。
帰省の際、いつも通る道のすぐそばに滝の看板があることは知ってはいた。観光名所というほどではないからか、滝見物の人を見かけたことは一度もない。
車で通りすぎるときに必ず音が聞こえるほどの水量でもなく、我々もわざわざ車から降りてまで滝を見ようと思ったことはなかった。
ところが…。
この年の5月にはその場所に近づくと水の流れる音が半端なかった。
その先にあるダムも、今まで一度も見たことがない瀑布状態。
どちらも思わず車を停めるほどの水量だった。
そして7月。
さらに大雨が続き、高齢の母が暮らしていた町で大きい被害。
亡くなった方、家を失った方…。
町全体が停電、そして断水。
道路も寸断された。
朝の早い時間に避難所へ入った母とは、その後そのなかなか連絡がつかなかった。
無事でいることは間違いないらしいものの、なんといっても高齢。
何日も避難所で過ごさせるわけにはいかない。
携帯電話は持っていたが、かけても出ない
後で聞くと、避難所にはたくさんの人がいて、あちこちで携帯が鳴っているので、自分のが鳴っていてもわからなかったそう。
西日本のたくさんの場所で被害が出ていたためか、母親の住む町の被害状況のテレビ報道はなかった。
ようやく夕方になり、町のシンボルとなっている会館の建物が半分以上水に浸かっている映像が流れた。
その映像を流したのはテレビ局一社だけ。
町へのメイン道路が崩落し、しばらくの間、ほぼ孤立状態だったから、ほとんどのマスコミは映像を入手できなかったのだと思う。
その夜はほぼ徹夜でネット情報を探した。
ところが、役所関連のHPには、詳しいことが全く出ていない。
各々の道路の通行不可ということだけは表示されていても、迂回路に関する情報がない。完全に孤立しているのかどうかがわからない。もし行けるのであれば、迂回路があるはずだけれど、その情報は皆無。
このときの私たちは、災害時のお役所というものは、まったくあてにならないと、ただただ憤慨していた。
結局、一般の人のTwitter情報で大回りルートを使えば何とか母の住む町の中心部まで行けるかも…とわかる。
その情報提供者は、確実に行けるというような伝え方ではなかった。
しかし、その方がこの非常事態に何とか正しい情報を発信しようとしていることは、手書きのルート地図が提示されているTwitter画面から強く伝わってきた。
実際に現地へ行ってみてわかったのは、被害が甚大すぎたということ。
普通に考えたら絶対に通行止めにしているはずの道路が崩落しているところも、上の崖から勢いよく水が噴き出ている道路も、どちらも注意喚起のためのパイロンが置いてあるだけ。
それすらない危ない箇所はたくさんあった。
何とか通れてはいるのだけれど、いつ崩れるかわからないような場所を通るのは怖かった。
おそらく、パイロンを置いたのは、お役所の担当者ではなく、その周辺の住民の方々。
小さな橋では、ひとりのご老人が、たったひとりでそこに流されてきたと思われる大量の木材等を黙々と片付けていた。
それを目撃した瞬間、我々は若い人はいったい何してるんだ!と思ったけれど、若い人たちにはもっと大変で困難な作業があったのだ。
そこを通り抜けた後、我々はどうしてこんなところに?と思う場所で、流されてきたであろう布団や家具や、そして軽自動車まで目にしている。
停電のため信号機もついていない交差点に交通整理のおまわりさんの姿はなかった。
あとでわかったことだけれど、その辺りは地区のほとんどが水に浸かっていた。そこに住んでいて、一晩中屋根の上で救助を待ったという人を知っているが、その方は母を連れてよく行っていた宿泊施設の料理長さん。
その日の我々は、そのまま行けると思われたところも、通れない箇所はいくつかあり、何度か迂回せざるをえなかったが、急ごしらえの迂回路表示が出ていて何とか迷わずに進めた。
本来だったら交通整理が必要なところはどこもかしこも、各々譲り合って通った。
お役所も、もちろんこの状況をなんとかしようとしていたはず。
しかし…。
尋常ではない事態だった。
交通整理もままならないくらい。
通行止めの情報を発信するのが精一杯だったのだろうと、実際に現地へ行ってみてようやくわかった。
実際にそういう状況の中を通ってみて、本当に怖いと思った。
それは、今まで経験したことのない恐怖。
結局、その後数週間の間に自宅と実家を4往復したけれど、町なかに2軒しかないコンビニには災害復興のために駆けつけてくれた自衛隊の方々がたくさん。わりと早く復旧した高速道路は、災害支援の自衛隊車と、喪服姿の乗客を乗せたタクシーを何度も見かけた。
日頃、四国内の高速道路でタクシーはほぼ見ないけれど、このときは、鉄道が一部不通だったから、遠くからご葬儀に駆けつけるのも大変だったと思う。
あれから5年の月日が流れ…。
高齢の母はあの水害が原因ではなく、病気が見つかりその年の秋にその町を離れたのだけれど、病気にならなくても、もうひとりであの町に住むのは難しくなっていた。
その後はちょっとした雨量でもすぐに避難情報が出るようになり、その場合ひとり暮らしの高齢者は、地区の担当者が必ず避難所へ連れて行くようなシステムになってしまった。
他人に迷惑をかけずに生きたいと言っていた母には、そういう暮らしは無理だっただろう。
結局、母は水害の翌年、一度も家へ帰ることなく病気で亡くなり、家はそのままだったから、我々はその後もその町には何度も通う必要があった。
でも、あの日大きく崩れて通れなかったいつも使っていた道は、その後もずっと通行止めのまま。
町へ入るルートはいくつかあり、当時メインルートも崩壊した。
しかし、メインルートは片側交互通行ながらもかなり早く復興。
うちの家からの行程だとメインルートを使って行く方が時間がかかるのだけれど、いつも使っていた道がずっと通れないままだったので、水害前まではほとんど使わなかったメインルートを使うしかなかった。
昨年11月末に田舎へ行くために事前に検索したら、なんとあの崩れていた道が片側交互ながら通れる。
4年以上かかってもまだ全面復旧ではないけれど、それでも通れるようになった。
実際に工事の様子を間近で見たらかなり難しい工事の様子。
すべての工事が終わるまでにはまだまだかなりの時間がかかりそうだけれど。
その後、私の体調不良もあり、家の手入れにも行くことができないので、どこまで工事が進んだかはわからないが。
今年もまた、あちこちで水害被害のニュース。
どうか命を守ってくださいとしか言えないのがもどかしい。