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もう10年以上前、母が病院のベッドで人工呼吸器に一時繋がれていた時のこと

みけ子は実の両親の介護に、十数年関わってきた。2年前に父が亡くなるまでのその年月の長かったこと、長かったこと。もう自分が死ぬまで両親の介護問題から足抜け出来ないのでは?!と思う程だった。

両親が要介護状態で、子供はまだ下の子が小学生。難しい思春期の長女もおり、毎日仕事にも行かねば生活は成り立たず。あっちもこっちも大変で「私はこれからどうすりゃ良いのよ?」って思う毎日だった。

先に要介護状態になった母(母みけ)は、若い頃から太り気味で高血圧。合わせて糖尿病も発症していて幼い頃に股関節脱臼した事もあり、運動での体調の改善にもなかなか取り組めなかった。そんな母みけが最初に脳梗塞で倒れたのは、現在のみけ子と同い年の62歳の頃だった。最初は自宅で父の介助を受けて老々介護で何とか過ごしていた。しかしそんなことでは凌げなくなり、みけ子が家族で当時住んでいたマンションの同じ階の賃貸部屋に越してきてもらったのが、東日本大震災の少し前だったと思う。

その頃は、母みけの介護を担っていた父にも認知症の症状が出始めていて、父も頻繁に体調を崩すようになっていた。そんな両親とも要介護の状態をうまく乗り切るために、同じマンションに越してきてもらった訳だ。

結局のところ、母がみまかるまでの20数年間、不自由な身体で車椅子を使いながらも生活できたのは、公的な介護のサポートがあったことが大きかった。昭和の景気の良い時代で右肩上がりの経済成長の世の中しか知らず、油断して貯蓄もせずにいた両親。人生の最後にお金の心配をしなければならなかったのは、家族としてもキツかった。

車椅子生活も長くなり、家族で生活するのが限界になった時、ようやく特別養護老人ホームに正式に入所することが出来た。入所待ち300人とかの状況だったが、家族での介護が限界になり、認知症もあった父が母への暴言や暴力も目に余る状態になりホームへの早い入所につながったのだ。

そんな特養ホームに入所して2年ほど。生活も落ち着いてきた頃、施設の職員から私宛に着電があった。「お母様が体調を崩され救急車で病院に運ばれました」と。病院併設の特養ホームだったから、救急車で他の病院に運ばれるというのはよっぽどの病状だったのだろう。入院した病院に駆けつけると、手術着を身につけた医師がみけ子が手術の同意書にサインをするのを待っていた。そんな状態ですぐに手術室に運ばれ、手術が終わって運ばれてきた母みけには、呼吸を制御する医療機器が取り付けられていた。

集中治療室で経過をモニターされ、しばらくは意識も戻らなかった。意識が戻って通常の病室に戻されるまで、何度も様子を見に行った。病院のベッドの上で動けない母みけを目にしても、自分は特に何の感慨も湧かなかった。それまでの介護生活があまりに大変過ぎたから。

そんな病床の上の母みけに、情のない娘のみけ子は耳元で囁いていた。

「もう無理してこっちに戻ってこなくていいよ。

お疲れさま。」


と。それも何度も。実の娘なのに言語道断といえば全くそう。でもその時の本音はその通りだったのだ。回復しても元の介護施設に戻るだけ。家族と一緒に暮らせる訳でもないのだ。病気で手術が必要な状態になって運ばれてきた患者の手術をするのは、病院側としては当然のことだったろう。だけどもう80代になろうとする、この老人の命を救っても、介護施設で余生を送るしかないのだ。

実の娘としてどうしようもない考え方だったろうけれど、今も振り返ってみてあの時の思いを否定する気持ちにはなれない。今でも時々、みけ子はダンナと話すのだ。あの時手術しても母みけが回復しなかったら「あ〜、ようやっと人生が終わったね。ながい要介護生活だったね。お疲れさまでしたm(_ _)m」と穏やかな気持ちで見送っただろうと。

実際はそうはならなかった。入所した母の施設へ支払う費用が、両親2人の年金を合わせた金額でようやく賄える金額。認知症の父も本当は施設に入所させたいが、2人分の入所費用に足りる年金金額ではない。義父との同居でストレスを溜めていたダンナも気の毒だったし、認知症で戸惑う父に私も十分に寄り添ったとは思えない。その点は思い出すと後悔が残る点だ。

その後また数年して母みけが、右半身に症状が出る脳梗塞になり病院に搬送された。今後の治療の選択肢を示されたが、当然延命の方向に舵は切らずにそのまま衰えて亡くなることを選択した(娘である私が)。

その選択に後悔はない。亡くなってお葬式が終わって、心の底から肩の荷が降りた気持ちになった。元号が令和になる直前だった。

自分の両親の介護のことは、まだ私の中では解決済みの事項ではない気がしている。折に触れてその時のことを思い出す。これで良かったのだろうかと。しかしどう考えても、あの時はあの選択を取るしかなかったと思うのだ。

ちょっとの後悔と、苦しかった日々と言葉では表現しきれない思いと。多分私はこんな思いを死ぬまで抱えて生きるのだろう。



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