見出し画像

ポルトブケール通りに泊る02/サンテミリオン村歩き#02

https://www.youtube.com/watch?v=Ir3C23EE-ow

いまでも、村のすぐ南にフォンガバン川L'oiseau de Fongaban Rivièreが運河となって流れているが、以前はこの川に繋がってドルドーニュ川へ向かうグランド フォンテーヌ川というのがあった。サンテミリオンの丘から始まる細い川だ。この川は幾つかの支流をもっていて、隣接しているプチフォンテーヌ通りにも流れており、物流の手段として利用されていたようだ。このグランド フォンテーヌ川は、いまのポルト・ブゲール広場に小さな池を持っていた。今は残滓もない。
ここにブゲール門(ポルト)Prte Bouqueyreが有った。サンテミリオンを出入りする商人たちの税徴収所だ。そしてフランス国王とアンジュー帝国の抗争時には城壁として拡充され、19世紀までは残っていた。今はこちらも残滓さえ無い。
Sous la robe(21 Rue André Loiseau, 33330 Saint-Émilion)+33557245680からホテルの帰り道、ブゲール通りを歩いた。

「南仏アキテーヌ公領の女相続人・淫婦アリエノール・ダキテーヌAliénor d'Aquitaineが、夫ルイ7世との確執に厭いてボルドーへ帰郷する際に、従者だった年下のノルマンディー公アンリとデキちまった話をしたことあるよな」
「ええ」
「二人はボルドーへ戻ると、さっさと結婚しちまった。フランス国王で亭主だったルイ7世も、二人を仲介した教会も激怒したが、そんなことお構いなく二人は、ノルマンディ領とアキテーヌ公領をくっ付けて、我が領土アンジュー帝国としたんだ。国の大きさとしては、唐突にフランスより大きなものができあがったわけだ。のちにアンリは英国王になる。彼は、英国王の後継者として下位だったんだが、あれよあれよと巧いこと転がって彼が指名されたんだ。この経緯は何とも謀略を思わせる話だ」
「netfiexのドラマになりそうね」
「激怒したルイ7世は、ボルドーを攻めた。そのときの前線にサンテミリオンは有ったんだよ」
「なるほどね、それでブゲール門があるのね」
「ん。サントとリヨンを繫ぐローマ街道はまだ機能していたからね。これがこの戦争のハブになった。アンジュー帝国成立がAD1152年。戦いは断続的に長く続いた。崩壊は1259年だから、100年以上もブルターニュ/ノルマンディ/アキテーヌ(ボルドー)は英国のものだったわけだ」

「サンテミリオンも?」
「ん。サンテミリオンのワインはボルドーへ運ばれて、ロンドンで売られていた。ワインの世界で、英国が今でも流通経路の本流なのは、この頃の名残だ。
パリ万博の特、ナポレオン三世の命令で、アメリカ人向きに五大シャトーを決めろと言われたボルドー市が、メドックから4者選んだろ?1者は違った。何処だった?」
「ぺザックのシャート・オー・ブリオンでしょ」
「ん。シャート・オー・ブリオンはロンドンで大ヒットしたワインだった。1600年代だ。Pontacks Headというレストランが有ってね、そこのオーナーがオー・ブリオンだった。当時はもうボルドーは英国のものじゃなかったからね、ロンドンで流通するワインの中心はスペイン製になっていたんだよ。1666年にこの店が出来た時は、センセーショナルだった。美味しいワインが還ってきたってね。たちまちフランスワイン=オー・ブリオンという図式が出来上がってしまったんだ。
だからボルドー市は、ナポレオン三世が決めろと言ったボルドー五大シャトーに、ぺザックのワインを選んだんだ。それともう一つは、初代ナポレオンが起こした戦争な。最終的にフランスは敗戦国になった。1814年のウィーン会議で、戦勝国が集まってフランスの簒奪を会議したとき、仏外相だったタラーレンが、当時フランスNo1.と云われたオー・ブリオンを会議へ大量に持ち込んで、これを各国の代表者にバラまいたんだ。これが見事に奏してね、ウィーン会議でフランスは領土の殆どを失うことなく済んだ。失ったのは植民地だけだった。それほどオー・ブリオンは有名だったんだよ。
いうなればオー・ブリオンの名声によって、フランス=ワインという図式が出来上がったというわけさ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました